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なぜ日本は<嫌われ国家>なのか:保坂正康か


「なぜ日本は<嫌われ国家>なのか」と題したこの本は、今の日本の置かれている状況を取り上げているのではなく、第二次大戦を戦った連合国から、当時の日本がどのように思われていたかを問題にしたものだ。要するに過去のことなのだが、そこで指摘されている日本のあり方は、本質的にはほとんど変わっていないので、いまでも何かをきっかけに、同じように嫌われることになるだろうという教訓のようなものを含んでいる。

保坂がこの本で取り上げるのは、第二次大戦中における諸外国の日本観だ。具体的には、アメリカ、イギリス、中國、ソ連および同盟国だったドイツ、イタリアである。保坂はできるだけそれらの国々の人々と会って話をすることで、かれらの本音を聞きだそうとしている。それを読むと、日本がいかに嫌悪されていたかが如実に伝わってくる。そうした日本への嫌悪感は、戦後数十年がたった現在ではかなり和らいでいると思うが、やはり完全に消えたわけではなく、何かのきっかけで表面化する。だから日本人は、そうした国々の人々に対して謙虚でなければならぬだろう、という意味のことを保坂は匂わせている。

まず、アメリカ。これはルーズヴェルトなど政治の上層部の日本観と庶民レベルの兵士の日本観に分かれる。ルーズヴェルトらアメリカの指導者たちは、第二次大戦を民主主義対専制主義の戦いと見ていた。この構図のなかで日本は民主主義の最大の敵だった。ルーズヴェルトはどういうわけか中國に親近感を持っていて、なんとか助けたいと思っていたが、世論の手前なかなか直接介入するわけにはいかなかった。対ドイツを含めてアメリカが大戦にコミットするためには、正式に参戦する必要があった。それには大義がいる。その大義を日本が贈ってくれた。真珠湾攻撃だ。激昂したアメリカ人たちは、日本への復讐を誓い、また対ドイツ戦を含めて、アメリカの世界大戦への参戦を支持した。これはルーズヴェルトの思う壺だった。というより、ルーズヴェルトの陰謀だった。ルーズヴェルトは積極的に日本を挑発して連合国との戦争を始めさせ、それをきっかけとして、参戦への大義名分を獲得したというわけである。ルーズヴェルトが中国人に寛大で日本人に厳しいのは、どういう理由かはわからぬが、アメリカには排日の歴史があり、ルーズヴェルトはそこから教訓を学んでいたらしい。中國は御しやすいが日本は始末が悪いというアメリカ人一般の日本観をルーズヴェルトも共有していたのであろう。

兵士レベルの日本観は、「ジャップと戦うときは、汚い手を使うことをためらうな」という言葉に象徴される。この兵士はペリリュー島の攻防戦を戦ったのだが、その際に地獄のような体験をした。日本兵は狡猾で、しかも最後の血の一滴まで戦いつづける。やり方はきわめて非人間的だ。アメリカ兵を殺すと、その男根を切り取って口にくわえさせる。これは人間のやることではない。日本兵は人間ではないのだ。だから日本兵に対しては、遠慮せずに、あらゆる手を用いて戦うべきだ。日本兵を見たら、一人残らず殺すべきだ、という感情を高めさせる。じっさい米軍はさまざまな対日戦で、執拗に日本軍のせん滅を追求している。その結果日本軍は、多くの戦場で全滅を強いられた。それはアメリカ兵に日本への憎悪が高まっていたことの結果だ。日本人を人間として見ていたら、投降した日本兵を捕虜として保護もしただろう。ところが日本兵は皆殺しにされたのである。なお、死んだ兵士の男根を切り取って口にくわえさせるというおぞましいやり方は、もともと日本兵が中国人ゲリラにお見舞いされたものだ。それと同じことを日本兵は米兵相手にやったということらしい。こういうことをやると、憎悪は制御できないものとなる。中國にやられた日本はその仇を南京でとり、アメリカは太平洋の島々でとったというわけだ。

次にイギリスの日本観。イギリスには、アメリカの排日運動に相当する動きはなかった。逆に、日英同盟のよしみもあって、日本に対しては比較的友好的な感情をもっていた。それが劇的に変化したのは、日本のマレー半島侵攻にともない十万人もの英兵が捕虜となり、ひどい虐待を受けたことが働いた。それ以後イギリス人の日本嫌いが広まり、天皇は憎悪すべき対象のシンボルとなった。その日本への憎悪は、戦後のBC級裁判での仮借ない判決となって現れた。また、これは日本のメディアが一切触れなかったことだが、戦後(昭和46年)昭和天皇がイギリスを訪問した際には、各地で無礼な出迎えを受けたという。

中國については、政治指導者レベルでの日本観を紹介するばかりで、庶民レベルの日本観は触れられていない。その指導者レベルの日本観は、「赦しはしないが利用する」というものだった。蒋介石は蒋介石なりに日本を利用しようとし、毛沢東は毛沢東なりに日本を利用したということらしい。

ソ連の日本観はスターリンが代表している。スターリンは執念深い男らしく、対日戦への参戦を日露戦争の復讐と位置付けていたらしい。その上、日本にドイツに準じた分割占領を施し、ソ連も分割統治の一端を担うつもりでいたらしい。しかしソ連が参戦したのは日本の実質的な敗北後であり、ソ連はいっさい軍事的な損失を出していない。血を流して日本と戦ったのはアメリカであり、ソ連がその勝利のおこぼれを主張するいわれはない、そういう理屈からアメリカはソ連を締め出した。しかしソ連による北方四島の占領には目をつぶった。

なお、ソ連の参戦によって、満州の残留日本人が味わった塗炭の苦しみを、保坂はソ連占領下のベルリンに譬えている。ベルリンを占領した部隊には、囚人部隊と呼ばれるものがあって、それがドイツ人相手に暴虐の限りを尽くした。スターリンもそれをわかっていて黙認したという。満州を占領した部隊にも、ウクライナの政治犯はじめ囚人の寄せ集め部隊が混じっていて、そいつらが中心となって残留日本人に暴虐の限りをつくした。その際関東軍は、自分たちの家族を逃がして民間の日本人を見殺しにした。戦後関東軍の元将校がその言い訳をしているが、保坂はその言い訳に怒りを覚えたということらしい。

ドイツとイタリアは、日本の同盟国だったが、日本に対する理解はほとんどなかった。条約上は相互防衛の規定があったが、ヒトラーにもムッソリーニにも、日本と対等という意識はなく、ただ自分たちの都合のよいように利用するという考えだった。かれらは日本に対して「黄色い猿どもを利用せよ」という考えで接していたというのだ。そんなかれらに心酔した松岡洋右はだから道化ということになる。その松岡を保坂は、昭和天皇の言葉を引用しながら、口を極めて罵倒している。松岡は、長州閥を背景にのし上がったが、頭の中は空っぽ同然だったようである。昭和天皇でさえその松岡の本質を見抜き、それが松岡への罵倒につながったのだろう。昭和天皇が「独白録」でもっとも嫌っていたのは、平沼麒一郎と松岡だったのである。

保坂は、戦後何年もたって、アメリカ人から次のように言われたという。「親爺の遺言だが、日本人には背中を見せるなと言われているんだ」。この親爺さんは、もしかしたらペリリュー戦に参加していたのかもしれない。



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