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失敗の本質


「失敗の本質」は、副題にあるとおり日本軍の組織論的研究をめざしたものだが、これが出た時にはちょっとした反響を呼んだ。それまで日本軍は負け戦の責任を一身に背負って、大多数の日本人の怨嗟の的となり、まともに相手にされることはなかった。戦争の個々の部分について肯定的な見方をするものはいたが、トータルとしては、あの戦争は負け戦を宿命づけられていたのであり、その責任のほとんどは日本軍が負うべきものとされた。そんなわけだから、日本軍はまじめな研究の対象にはならなかった。ところがこの本は、日本軍はたしかに負けたとはいえ、その行動には、半面教師的なものも含めて教訓とすべきものがないとはいえない。とりわけ企業の経営者にとっては、組織を動かしていくという視点から、学ぶべき点が多い、と主張した。それが当時、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられていい気になっていた日本人に、新鮮に映ったのだろうと思う。小生自身は、これが出た時には読む気にもならなかったが、最近昭和の軍事史に興味を持つようになって、この本の存在を改めて知り、読んでみようという気になった次第だ。

六人の共同執筆者が言う通り、この本は、先の大戦における、日本軍が個々の作戦で喫した負け戦の、その負け方をテーマにしている。したがって非常に微視的な視点から戦争を見ている。あの戦争全体の意義だとか、それへの軍のかかわりだとか、個々の作戦を導いた日本の戦略面での背景とか、戦争を大きな目で見るという視点は一切ない。個々の作戦に的をしぼり、余計なことには触れずに、ひたすら日本軍の作戦行動に焦点を当て、日本軍がなぜ負けたかをきわめて微視的・技術的な切り口から分析している。個々の作戦をゲームに見立て、そのゲームを日本がいかに負けたかについて、もっぱらゲームを楽しむような感覚で書いている。だからとてもまともな軍事史研究とは言えない。六人の執筆者の顔ぶれを見ると、軍事史や政治史の専門家はおらず、組織論とか経営学の専門家が並んでいるので、かれらの真の目的は、日本軍を正面から研究することではなく、その失敗から組織経営上のヒントを得ようということらしい。日本軍の犯した間違いを徹底して学べば、それから得た教訓を企業の経営にも役立てることができる、と彼らは考えたようである。

彼らは、この本を日本の経営者に読んでもらい、それから得た教訓を現実の企業経営に役立ててほしいと考えたらしいのだが、じっさいこの本が役に立つとは到底思えないし、現場の経営者のほとんどもそう思ったのではないか。個別企業にとっても、その企業の存在意義とか、その企業が置かれている状況をわきまえたうえでなければ、まともな企業経営などできるものではない。だからこの本が提示しているような、世界の大局と切り離された、いわば試験管の中で再現された個別のゲームの成り行きを示されても、企業経営に役立つと思う経営者はほとんどいないにちがいない。

だいたい、企業の根本的な存立条件をわきまえないで企業経営をすること自体、砂上の楼閣を描くようなものだ。もし、現場の経営者が、この本から得られた教訓をもとに、特定の会社の経営をせよと言われたとしたら、その経営者は泥船の運航を任されたような気がするであろう。この船が現在陥っている状況がいかなるものか、またこの船が目指すべき目的地はどこか、そういう基本的なことがらを無視しては、まともな仕事ができるわけもない。ところがこの本は、そういう基本的な条件を一切無視する形で、当面の戦局を、ゲーム感覚で解説することに徹している。

まがりなりにも戦争をテーマにするのであるから、まず戦争の大義から始めるのが王道だろう。戦争の大義とは、日本という国家にとっての戦争の大義であり、それを踏まえた軍の大義である。ところが先の大戦はこの大義を欠いていた。大義の欠けた戦争は負けるべく宿命づけられている。じっさい日本は、大義を欠いたために世界中から孤立し、英米をはじめとした先進諸国のほぼすべてを相手に戦う羽目に陥り(同盟国の独伊両国はただ名目だけで、日本にとっての軍事的な意味は全くもたなかった)、また、中国はじめアジア諸国に対しては侵略者として振舞った。こういう状態で日本が勝てる道理はないのであって、日本は根本的に負けるよう宿命づけられていたのである。そういう大前提をパスして、個々の作戦の是非を論じるのは、まったく以て愚かなことと言わざるを得ない。

その愚かなことに、この六人はまじめくさって取り組んでいる。その様子には滑稽ささえ感じられるのだが、本人たちには無論そんな意識はない。彼らは、戦後日本の主流的な言論が戦争の無謀さと日本軍の無能ぶりを罵倒する風潮に強く反発してみせるのだが、それは、彼らなりの愛国心の現れなのだろう。かれらは先の大戦(アジア・太平洋戦争)を「大東亜戦争」と呼ぶのだが、この呼称はかつて日本軍が用いていたものであり、また国としてもそれを採用していた。この言葉は、日本がアジア諸国のリーダーとなってアジアの解放を目指すというふうに意味付けられていたが、内実は、アジア諸国の資源を日本の戦争に動員するということであり、したがって日本の侵略主義を表した言葉であった。その言葉をこの六人は、日本軍と同じような気持ちで使っているらしいから、彼らが日本軍に過度に思い入れをするのは、ある意味自然なことというべきかもしれない。

そんなわけであるから、この本には、過去への反省もなく、未来への教訓もないというべきである。一応ミッドウェー作戦以下六つの作戦がモデルケースに取り上げられているが、どれもこれも将棋のゲームの進行を実況しているようで、そこには表層の接近はあるが、本質的で深い分析はない。あまりにも能天気な分析が繰り返されるので、読んでいて退屈になるほどである。彼らにかかっては、どの作戦もほとんど差別ができないほど似通った失敗で満ちているのである。そんな失敗をいくら振り返ってみたところで、有意味な教訓が得られるべきもない。
 
この六人はそれぞれの資質に応じて精いっぱい頑張ったということだろうが、問題はこういう本が日本人に大うけしたということだ。この本が出た当時の日本は、高度成長が終わって、低成長時代へ入ろうとするころであったが、まだ高度成長時代の自信が残っていて、国民の間には、ある種の愛国感情も起こりつつあった。この本はその愛国感情に訴えたということだろう。そうだとすればこの本の成功は、当時の日本という国の国民の民度を反映していたということになる。



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