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小熊英二「生きて帰ってきた男」


岩波新書の一冊「生きて帰ってきた男」は、社会学者の小熊英二が自分の父親の生涯を、聞き書きと言う形でまとめたものである。小熊の父親は敗戦直前の昭和十九年十一月二十五日に陸軍に召集され、満州で敗戦を迎えた後シベリアに抑留され、その三年後の昭和二十三年八月に復員した。この聞き書きはシベリア抑留生活を中心に、入営以前の父親の家族の暮らしぶりと、復員後の父親の生き方を併せて紹介することで、戦争の時代を生きた日本人の一つの典型を描き出そうとするものだ。著者が言うとおり、それまでのシベリア抑留にかかわる書物はいずれも抑留だけに焦点を当て、その前後の生活の部分をオミットしていたが、この本はそれを含めて紹介することで、シベリア抑留を生きた一日本人の肖像を立体的に浮かび上がらせることができているように思う。

著者の小栗はこの本を書くために父親に長時間インタビューしたということである。父親の記憶もさることながら、息子の聞き方もよかったのだろう。シベリア抑留の実態が非常に鮮明に語られている。シベリア抑留を経験した人たちは、だいたいがそれについて語るのを嫌うと言われているが、小熊の場合には親子関係ということもあって、父親が息子の質問に答えるという形で自分の体験を詳しく語ったのだろう。

翻って筆者自身のことについて言えば、筆者の父親もシベリア抑留の体験者であったが、そのことについては生前殆ど語るところがなかった。息子の筆者も敢えて父親に聞くことはなかった。しかし父親に死なれた今となってみれば、息子の方から聞いていたなら、それに答える形で語ってくれたかもしれないと、小熊のこの本を読みながら、残念に思ったりもした。

筆者の父親もそうだったが、シベリア抑留者を含めて、先の大戦を体験した人々には戦争に対するアレルギー反応が強かった。その戦争嫌いは彼らの実体験に根差したものだったと思うが、戦後軍部や政治家を始め戦争指導者たちの無責任ぶりが次々と明らかになるにつれて、彼らの戦争嫌いはますます強くなっていった。戦後の日本人が強い平和志向を持っていたとされるのは、こうした人達の実感が社会的に大きな影響力を持ったためだと思う。

小熊の父親も、戦争嫌いの気持を、天皇の戦争責任を問うという形でシンボリックに示している。たしかに天皇の戦争責任が曖昧にされたおかげで、日本の政治指導者はいまだに戦争責任に真面目に向き合おうとしないし、また、筆者や小熊の父親の世代の人が少しづついなくなるにしたがい、国全体としても戦争責任を避けて通るようになってきている。その挙句に、とくに隣国に対して、好戦的な意見が幅をきかすようになってきている。

それはともかく、この本を読むと、シベリアに抑留された人々の困難と、彼らが復員した後の日本社会の彼らの迎え方などが、立体的に浮かび上がってくる。一つ救われるのは、戦後の日本が早めに復興を果たした後に、いわゆる高度成長を実現し、その成長のエネルギーに支えられて、まともで人間的な生活を送ることが、多くの日本人にとって可能だったことだ。

この本を読んでいると、あたかも成瀬巳喜夫の映画を見せられているような気持ちになる。あの時代の日本人は、成瀬が映画で描いた人々のように、必死に生きていたし、またそう生きることで聊かながら報われていたのだと思う。格差社会の進展が指摘される中で、懸命に働いてもまともな生活ができない人々が増えている昨今と比べ、ある意味幸福な時代だったと言えなくもない。



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