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原武史「昭和天皇」


天皇を論じる際の視座には色々ありうるが、この本は宮中祭祀の主催者としての天皇に光を宛てている。宮中祭祀というのは、国家神道の行事であって、天皇が天照大神の末裔としての立場で行う宗教的な営みである。本来宗教的な行事であるから、祭政一致が否定された戦後体制では公の行事としては行われなくなったが、天皇家の私的な行事として生き残った。しかし、天皇家の私的な行事として片付けるにはあまりにも政治的な性格を持たされており、昭和天皇自身もそれを自覚していた、というのがこの本の著者の基本的な見立てのようである。

宮中祭祀といい、その根拠としての国家神道といい、悠久の昔から引き継がれた伝統のように見えるが、実は明治以降に制度として整備されたものであって、その意味では作られた伝統であった、というのが著者の見立てである。明治天皇は宮中祭祀を軽視していたが、それはこの行事が「作られた伝統」であることを自覚していたからだと著者は言う。それのみならず、ついには全く宮中祭祀に出なくもなるのは、明治天皇が自分自身を「生神」として自覚するようになったためだとも言う。「生神」なら自分自身が祭られる立場であるから、たとえ祖先神であっても自分自身以外の神をまつることはないわけだ。

大正天皇は、宮中祭祀よりも私的な休暇のほうを優先した。そこから、この天皇は神道そのものを重視していなかったように見える、と著者は言っている。

この二人の天皇と比較して、昭和天皇は非常に熱心に宮中祭祀を行った。その意味では特異であったわけだが、その背景には母親である貞明皇后の影響があったとともに、自分も天皇として国家神道の主催者であるという自覚を深めたことに原因があったのではないかと著者は推測している。

昭和天皇は、イギリス留学の影響などがあって、若いころは合理的な考えを持ち、国家神道や宮中祭祀についてあまりのめりこんでいなかったらしい。それが、母親の貞明皇后がことあるごとに息子の昭和天皇に宗教的な圧力を加えたことに加え、日本が国をあげて戦争をする事態に直面して、国家元首としての立場から国家神道を推進するように促されていった。それ故、戦争が激化し、国の存亡が問題となるなかでも、というかそうした時局に直面していっそう、宮中祭祀に熱心になった、そう著者は見ている。

こんなわけであるから、日本が戦争に負けたときに、昭和天皇がもっとも拘ったのは、皇祖への責任であって、国民への責任意識は希薄だった。昭和天皇がもっとも気にしていたのは、本来平和の神である伊勢神宮の神々に戦勝祈念をしたことは間違っていたのではないか、ということだった。戦勝祈念ということでは、靖国神社への参拝も頻繁に行っていたが、これには戦死した国民への慰霊ということもあっただろう。国の元首としては、国家のために戦死したものの霊を慰めるのは当然のことだからだ。それ故こちらは、立場上の儀礼と云う色彩が強く、したがって戦後になると、そう頻繁には行われず、ついには全く行わなくなった(A級戦犯合祀問題もからんではいるが)。

戦後の昭和天皇は宮中祭祀を非常に重視し、よほどのことがなければ欠席することはなかった。明治天皇や大正天皇とは異なり、昭和天皇は宮中祭祀の執行こそ天皇の最重要の職務だと考えていたようである。つまり作られた伝統としての国家神道と宮中祭祀が、昭和天皇の代になって、天皇本来の神聖な職務と観念されるようになったわけである。

この本を読んでいると、晩年の昭和天皇の宮中祭祀への痛々しいほどのこだわりが伝わってくる。宮中祭祀というのは体力的な消耗が激しいらしく、高齢で体力が弱った天皇には荷が重過ぎたというのである。それでも昭和天皇は、最後まで宮中祭祀に拘り続けた。

この本では明確な言及はしていないが、そうした昭和天皇の宮中祭祀へのこだわりを今上天皇も受け継いでいるのではないかと思われるところがある。昭和天皇が老い衰えた体に鞭打つように、宮中祭祀に身をささげる姿を見て、今上天皇は宮中祭祀をまともにできなくなっては、天皇としての責任が果たせないと思うようになったのではないか。

今般の今上天皇による生前退位の意向をめぐる問題については、公務の軽減だとか摂政だとかいった議論があるが、今上天皇の脳裏には、そんな表向きのことばかりでなく、いまでは天皇家の私事という扱いになっているとはいえ、天皇としての最重要な職務である宮中祭祀をつつがなく行えないようでは、皇祖に対して申し訳がない、そう思われているのではないか。

宮中祭祀問題のほかにも、この本は昭和天皇の様々な面について触れている。とりわけ興味深いのは、いわゆる「昭和天皇独白録」についての見方だ。これは、昭和天皇が自分に対する戦争責任の追及を意識して、自分を裁くかも知れぬ人々に対して弁明を試みたものだ、というのが著者の見立てのようだ。



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