戦場の軍法会議~処刑された日本兵
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軍隊に軍法会議はつきものだが、旧日本軍での軍法会議のあり方がどうだったかについて、筆者は殆ど知らなかった。ところがその一端を、NHKスペシャルの「戦場の軍法会議~処刑された日本兵」という番組を通じて知った。
番組はまず、軍法会議の標準的な構成について紹介していた。それによれば軍法会議の構成員は5人で、4人は軍人だが、ひとりは弁護士資格などを持つ法律家を、法務官という形で参加させていた。法律に明るくない軍人たちに、法的なアドバイスを与えることが、その主な職務だったという。
ところが、太平洋戦争末期に、法務官も軍人の身分に移された。軍人として上官の指揮下に置くことによって、法務官の独立性を弱め、軍上層部の意向がストレートに判決に反映されるようにとの意向に基づいた措置だったと思われる。
軍法会議の実態については、詳しいことは殆どわかっていない。終戦当日に、陸海両軍とも、軍法会議にかかわる記録をすべて焼却処分してしまったからだ。ただ、戦争が進み日本が敗色濃厚になるにつれて、軍法会議での判決も増えていったということは分かっているという。昭和20年だけでも5000以上にのぼったらしい。
その軍法会議の実態について記録したものを、個人的に保存していた人のいることがわかり、NHKがその人に接触してインタビュー取材をした。番組はその取材の結果をまとめたものだ。
取材に応じたのは研究者の北氏。北氏は、法務官としてフィリピンに派遣されていた馬場中尉から、馬場中尉自身が作成した軍法会議関係の資料や日記を託されたほか、馬場氏とのインタビューも行っていた。馬場氏は自分の生前にはこれらを公開しないようにと要求していたが、馬場氏が亡くなってしばらくたったいま、公開に踏み切ったのだという。
番組が着目したのは、或る兵士の死刑にかんする記録だった。その軍法会議にかかわった馬場氏は、兵士の罪が死刑に相当するものではないにかかわらず、そう判決したことに自責の念を感じていた。その兵士は、飢えに襲われて戦場を離脱し、食料をあさりまわって放浪し、15日後に逮捕されたのであるが、軍法会議の規定によれば、これは逃亡罪に当たり、懲役または禁錮6か月以上7年以下の刑罰に相当するものだった。それを死刑にするためには、手続き上、違う罪状を適用する以外になかった。そこで馬場氏は、奔敵つまり敵に投降したという罪で死刑にしたというのである。
馬場氏の苦汁の判断には、上官の意向が強く働いていたという。軍の上層部は兵士の逃亡が軍隊の士気の低下につながることを恐れ、見せしめのために、逃亡者に極刑を課したかったというのである。また極刑に処するかわりに、特攻をやらせたケースもあった。特攻は体裁を変えた自殺強要なのである。
同じようなケースはフィリピンだけでなく、各地の戦場の軍法会議で多数存在していたのではないか、番組はそう推測していた。(写真はNHKから)
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