日本語と日本文化


林博史「BC級戦犯裁判」


第二次大戦後に、日本やドイツなどの敗戦国に対して適用されたいわゆる戦犯三類型のうち、日本人を対象にしたBC級戦犯裁判の実態については、これまで組織的な研究がなされてきたとは言い難かった、と林博史氏はいう。この著作「BC級戦犯裁判」(岩波新書)は、そうした状況に一石を投じるつもりで書いた、と氏はいうのだが、筆者なども、この問題が今後組織的に研究されることを期待している。というのも、先般は南京事件を巡って、某名古屋市長の放言をきっかけに、日中の歴史認識に齟齬のあることがあぶりだされたばかりであり、歴史的な事実に対しては、曇りのない目で向き合うことが肝要だと、あらためて思い知らされたからである。

A級戦犯を裁いた東京裁判についても、戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた不公平な裁判であり、審理の実態も、政治的な思惑に彩られた不合理なものだったとの批判が、日本人の中には根強い。筆者自身も、児島襄氏などの研究を通じて、そんな印象を持たないでもなかった。

BC級戦犯については、上述したような批判に加え、裁判のやり方が一方的で、無実の者の多くが絞首刑になったり、本来責任のあるものが責任を問われず、現場に居合わせた兵士たちが、上官の命令に従っただけなのに、重大な責任を問われて絞首刑になった、といった不満が強かったようだ。

こんなことから、BC級戦犯裁判問題は、感情的になる要素が強すぎて、客観的な検証が困難だったとは言えよう。だが、感情的になる余りに、この歴史的な問題をきちんと検証しておかなければ、日本人は、ちゃんとした未来を切り開いていけないだろう。

ところで、BC級戦犯と一言でいうが、実体としては、C級である「人道への罪」が、日本人について裁かれたことはなかった。ナチス・ドイツの場合には、ユダヤ人やロマの組織的虐殺をはじめとして、このカテゴリーがクリティカルになったのとは異なり、日本の場合には、伝統的な戦争犯罪、すなわちB級戦犯がもっぱら裁かれた。

裁いた国は8か国、裁かれた日本人は(ソ連の場合を除いて)5700人、ソ連によるものを含めれば1万人程度だと推測されている。というのは、ソ連で行われた戦犯裁判の実態が、いまだに闇に包まれたままだからである。

ドイツやイタリアなどヨーロッパの枢軸国を対象にした戦犯裁判では、9万人が裁かれたというが、それはドイツなどに占領された国々が、自国の国内で行われた戦争犯罪を徹底的に追求したことを反映している。それに対して日本の場合には、フィリピンを除いては、占領された国が直接日本を裁くことはなく、イギリス、フランス、オランダといった宗主国が裁いたのであり、それらの宗主国は日本人による植民地人民の被害については、必ずしも同情的ではなかった。

裁かれた5700人のうち、死刑になったのは984人、そのうち死刑が執行されたのは934人である。死刑になったものの内訳としては、下士官が最も多く、下級の将校がそれに続いている。そのことは、作戦に責任のある上級将校ではなく、個々の事件に直接かかわった現場の責任者たちが罰せられたということを物語っている。しかし、「わたしは貝になりたい」などで情緒的に問題とされた、二等兵や一等兵が上官の命令に従っただけで死刑になった、という事例は存在しない、と氏はいっている。

どんなケースを対象にして、戦争犯罪を追及したかについては、裁いた国によって特徴がある。アメリカは主として米兵捕虜の虐待問題を取り上げた。その象徴は、石垣島に不時着した米軍機のパイロット3人を、日本人がよってたかって虐殺したというもので、これに対しては、下級兵士も含めて、当初は40人以上に死刑判決をだしたほど、厳しい姿勢で臨んだ。

イギリスは、自国兵捕虜の虐待のほかに、植民地住民への虐待も積極的に取り上げた。というのも、イギリスは戦後旧植民地の回復を図るうえで、宗主国としての威厳を保つ意味でも、住民に対して行われた、日本軍による残虐行為を厳しく裁く姿勢をみせる必要があると判断したためだろう、と氏は推測している。

これに対して、フランスとオランダは、もっぱら自国民への虐待を取り上げて、植民地住民についてのケースには冷淡だった。というのも、戦後ヴェトナムやインドネシアなど、両国の植民地が独立を巡って、宗主国と対立関係に入ったという事情があったからだと氏は推測している。

氏の議論のうち、ひとつ印象的だったのは、「当局は、残虐行為の責任者を裁判で処罰する政策を打ち出すことによって、民衆が自力で報復することを抑えようとした。法による裁きは何よりも当事者による報復をやめさせるという働きがある」と指摘している点だ。実際中国では、一部で民衆による直接の報復があったともいわれているが、大部分の場合、現地住民による私的制裁といったような事態は起きていない。

注目すべきなのは、裁かれた戦犯の中に、朝鮮人(148人、うち死刑23人)と台湾人(173人、うち死刑21人)が含まれていることである。朝鮮と台湾は日本の属国とされ、朝鮮人と台湾人は日本国民とされていた。よって彼らは日本人戦犯として裁かれたわけである。

しかし日本政府は、敗戦後、朝鮮人らが独立によって日本国籍を失ったという理由で、彼らやその家族への援護を拒否した。その結果、日本人戦犯については、1952年の独立後、減刑や釈放などの方針がとられ、1958年までには、すべての戦犯が釈放されたにもかかわらず、朝鮮人、台湾人の戦犯は、その恩恵に与れなかった。このことについて、氏は次のようにいっている。

「当時は日本人だとして戦争に駆り立てておきながら、戦争が終わると日本人ではないといって援護を拒否し、戦犯としての罪だけは押し付けるという、卑劣としかいいようのない政策をとったのである」

一人の日本人として、なんとも考えさせられる指摘である。


    

  
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