日本語と日本文化


アッツ島の玉砕:児島襄「太平洋戦争」から


アッツ島の玉砕は、玉砕という言葉が使われた最初のケースだった。それは文字通り全滅を意味する言葉だった。実際、アッツ島に展開していた日本軍約2600名のうち、捕虜になった29名を除いて全員が戦死したのだった。軍の首脳はさすがに全滅と云う言葉が憚られて、玉砕と云う美辞を使ったのだろう。

一部隊が玉砕したにしては、アッツ島における戦いは、意味のわからない代物だった。いったいなぜ日本が、この極北の不毛な島を占領したのか、そこのところからして、ぼやけているのである。

アッツ島、キスカ島を含むアリューシャン列島方面に日本軍が進出したのは、ミッドウェー海戦と同時期だった。参謀本部の狙いは、米軍による日本本土空襲基地設定の妨害、米ソの連絡の遮断、いざ対ソ戦が始まったときのカムチャツカ半島への進出拠点の確保、といったことだったらしい。

一方アメリカの方は、日本軍によるシベリア攻撃の準備、米ソ連絡遮断、アラスカ侵入の準備とみていた。そこでルーズベルト大統領はスターリンに書簡を送り、米ソが共同して日本にあたることを協議しようと申し入れた。しかしスターリンは、いたずらに日本を刺激することを恐れて拒絶した。対独戦に全力を集中しなければならない時に、日本と無用の対立は避けたかったのである。

アメリカは、日ソ戦の可能性はないと踏み、残る懸念は日本軍のアラスカ侵攻だけとなったが、これもほとんど可能性はないと読んだ。そこでマーシャル参謀総長は、キスカ、アッツの両島については、放置していても、作戦上あまり問題ないだろうと判断した。ところが、アラスカの西部防衛軍司令官デウィット中将は、両島の断固奪回を強く主張した。その背景には、奪還を求める世論の強力な後押しがあった。たとえキツネと密猟者以外は関心を持たない土地だとしても、日本人を住まわせる必要はないというわけである。

こうして1943年の4月に、アメリカ軍によるキスカ、アッツの奪回作戦が始まった。当時キスカ島には5600人、アッツ島には2600人の日本軍が駐留していた。アメリカはまず、アッツ島から撃滅にかかった。

4月21日に、両島への空襲を開始し、10日間でキスカに155トン、アッツに95トンの爆弾を投下したのち、5月11日、キンケイド少将率いる機動部隊の掩護射撃を受けながら、米第7師団1万1000人が、アッツ島東部北側のホルツ湾、同南側のマサッカル湾に上陸し、南北から挟み込む形で日本軍にせまった。

五月とはいえ、アリューシャン列島は冬のような寒さだ。おまけに5月は霧が深い季節ときている。日米両軍は乳白色の霧の中で、寒さに震えながら戦った。数で圧倒的に勝るアメリカ軍が、日本軍をじりじりと追い詰めていったことは、流れの勢いというものだ。5月29日、山崎大佐が最後まで残った150人の兵を率いて夜襲をかけたものの、29人が捕虜になった以外は、全員が戦死した。

一方米軍の損害は、戦死550人、戦傷1140人、凍傷による戦闘不能者1500人にのぼった。日本軍ほどではないが、それなりに大きな損害だといえる。

アッツ島の全滅を受けて、参謀本部はキスカ部隊5639人の撤収を急ぐことにした。折角占領はしてみたものの、その戦略的な価値に次第に懐疑的になっていた参謀本部は、作戦上も犠牲の多いこれらの島を、これ以上防衛する意味がないと判断したのだ。

5月27日以降断続的に撤収活動が行われ、7月29日に全員の脱出が完了した。そのことを知らなかったアメリカ軍は、8月15日に、米兵約3万、カナダ兵約5000の部隊で上陸したが、彼らが見たものは、ゴーストタウンのように放棄された兵舎と3匹の子犬だけだったという。

以下は、アッツ島の玉砕を伝える5月30日付の大本営発表の内容である。

「アッツ島守備隊は、5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ、5月19日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し、皇軍の真髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、これに先立ち悉く自決せり。我が守備部隊は二千数百名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特殊優秀装備の約二万にして、5月28日まで与へたる損害六千をくだらず」


    

  
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