日本語と日本文化


シンガポールの華僑処刑事件:児島襄「太平洋戦争」


シンガポール攻略は南方作戦の中でもっとも重視された作戦だった。シンガポールは何と言っても、大英帝国の最大の拠点である。ここを叩けば、日本は南方海域に橋頭保を築くことができ、逆にイギリスは最大の拠点を失うことになる。そのことでイギリスの戦意を消滅せしめ、早期決戦という日本の思惑が現実化する可能性がある。

日本軍は当初、3月10日の陸軍記念日までにシンガポールを攻略する計画だった。しかしそれより早く2月11日にはシンガポール島のブキテマ高地を占領して事実上攻略に成功し、15日には現地軍が白旗をかかげて正式に降伏した。

これは、12月8日にマレー半島のコタバルに上陸して以来、シンガポール島の対岸ジョホールバルまでわずか55日で到達するという日本軍の快進撃の賜物だった。それにあわせて、シンガポールを守るイギリス側連合軍は士気が弱かった。指揮官のパーシバルが軍人としての能力に欠けていたうえ、インド、オーストラリアなどの外国人部隊もあわさった混合部隊で、相互の意思疎通が万全でなかったという事情もあった。

ところで、シンガポールの攻略に当たっては、日本にとって忌まわしい副産物が生じた、と児島氏はいう。華僑処刑事件である。

日本軍はシンガポール攻略後2月20日までに「反抗華僑容疑者名簿」を作成し、それにもとづいて2月21日から3月末日にかけて6500人の中国人華僑を逮捕、そのうち5000人を処刑したのである。処刑の理由は、飛行場爆撃誘導、砲撃標示、後方兵站線襲撃などの通敵行為であるとされたが、調査は十分であったといえず、また正式な裁判も経ないで行われたために、華僑社会や連合軍は、この処刑事件をシンガポールの華僑大虐殺、あるいは粛清と呼んで、日本側を激しく非難した。

この事件は南京事件とともに、アジア・太平洋戦争における日本軍の残虐行為の典型として、事件に関与した将官2人、佐尉官7人が、戦後シンガポール軍事裁判で裁かれ、警備司令官河村中将、憲兵隊長大石中佐が絞首刑になっている。

日本側は、なぜ華僑をターゲットにこんな大規模な処刑を行ったのか。

それはマレー、シンガポール社会の華僑が猛烈な反日意識をもっていたことによる。彼らは「消極的な抗日運動だけでなく、日本軍の前線すべてにわたって積極的に後方攪乱、情報工作を行った」

このような華僑に対する日本軍の認識は、戦後極東軍事裁判での、第25軍参謀杉田中佐の次のような証言に現れている。

「馬来作戦に於て華僑はその終始を通し・・・我が作戦を不利ならしめたること甚だし。即ち・・・頻繁なる通敵行為により我が作戦企図は敵に察知せられ・・・我が部隊の密集地域に砲爆撃を蒙り・・・兵站線の襲撃、交通線、軍用通信線の破壊・・・を実施し、軍需品特に弾薬の戦場到達を遅延せしめ、ために神速を要せし馬来作戦を妨害困難ならしめたること屡々なり」

このような華僑の態度を見た日本軍は、華僑に対して敵対意識を燃え上がらせ、イポー、クアラルンプルでは、抗日分子とみられる華僑を処刑し、その首をさらすことによって、人々を震え上がらせたのであるが、それがまた華僑の反日意識をますます高めたことも疑いない。

なかでもダル・フォースと呼ばれた華僑の抗日部隊は、日本軍に対してゲリラ的な活動を行い続けた。これはもともとマレー保安警察情報部長ダリー大佐の呼びかけに答えて集まった華僑部隊だったが、シンガポール攻略選のクライマックスでも大活躍し、上陸しようとする近衛師団を相手に戦った最後のダル・フォースは200人、その全員が華々しく死亡した。彼らの死体を見聞した近衛師団は、中国人と知って非常に驚いたという。

こんなことがあったために、日本軍の華僑に対する敵愾心は異常に高まっていたのだと思われる。その敵愾心がシンガポール華僑の大量殺害をもたらしたのではないか。

この事件が「太平洋戦争を暗くいろどる不祥事であったことに変りはない。こうして日本は、初戦において早くもアジア人を敵に回し、戦争遂行に必要な原住民の協力を失った。マレー、シンガポールの華僑は、この事件によって、ますます反日態度を固め、シンガポール市、マレー半島におけるゲリラ活動は、この後決してやむことはなかったのである。」

児島氏はこう述べて、日本側の過剰防衛と、それによって失った占領地住民の協力と反日意識の高まりについて、大いに嘆いている。


    

  
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