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日本海軍はなぜ過ったか:海軍反省会をめぐって


澤地久枝、半藤一利、戸高一成三氏による鼎談記録「日本海軍はなぜ過ったか」を読んだ。先般海軍反省会による会談の記録がNHKによって編集の上放映され、大きな反響を呼んだところだが、これはその反省会の記録の意義や問題点について、アジア・太平洋戦争にそれぞれの立場からかかわってきた三人に、語り合ってもらったものだ。

澤地さんはミッドウェー海戦を細部にわたって徹底的に分析したことや女の立場から2.26事件を描いたことで知られる。半藤さんは「ノモンハンの夏」や「昭和史」などアジア・太平洋戦争に関する膨大な著作を書いている。戸高さんは、この二人とは一世代以上若い戦後生まれだが、旧海軍関係の組織(資料調査会)に勤務され、海軍反省会についても、その前半部には書記のかたちでたずさわった経験があるという。

海軍反省会の第一回会合は昭和55年のことだ。戦後35年たってやっと、自分たちがやって失敗した戦争というものについて、一度反省をしておこうという機運が出てきたということになる。このころになると、大将中将といった組織のトップだった者がだいたいなくなっている。そこで佐官クラスの比較的自由な立場にあった人々が集まってきて、自分たちなりの視点から、あの戦争について、ざっくばらんに語り合った。とはいっても、対外的に公開することは予定していない。公開すれば当然責任問題が出てくる。それはやはり辛いのだ。

メンバーの顔触れを見て、澤地さんはいう。「大体として、軍令部とか海軍省とかの、つまりエリートのかたたちですね。実戦ではあまり仕事をしていないひとたちではないですか」

すると、「この世代は、実戦部隊の人が少ないのは当然で、みんな死んでいるんですよ」と戸高さんがいい、半藤さんは、「そうです。ですから反省会は生き残りのエリートの会議だなという感じがしますね」と手厳しい。

そんな彼らの話しぶりを聞いていて、三人が共通して感じとったのは、海軍がいかに長期的な展望を持たずに、それこそ行き当たりばったりに戦争をしてきたか、ということだった。澤地さんは、聊か怒りをこめて、そのことを指摘する。「おかしかったのは、<勝てると思ったんです、あはは>と笑っていること。そんなに簡単にいってもらっては困る、と私は思いましたね」

すると戸高さんは「全体の流れとして、戦略的には全く長期展望がない、というところですね」とフォローし、半藤さんは「対米戦争をするとき、どういう形でやるかという最新の作戦要務令というのが必要だったんですが、なんと、それがなくて、昭和9年の海戦要務令のまま戦うんですよ」と追加する。

この昭和9年の要務令というのは、伝統的な古い考えに基づいて作られており、海軍力の近代化を十分に踏まえたものになっていなかった。基本的には、日露戦争海戦の勝利にもとづいて作られたもので、海軍の戦略の基本は、連合艦隊がバルチック艦隊を破ったその戦いぶりの中にある、つまり敵艦隊を日本近海におびき寄せて撃破するというものだ。そこには航空戦に関するあらたな戦略も欠けていれば、潜水艦に対する認識も欠けており、はなはだ時代遅れのものだった。

なぜこんな馬鹿げたことがまかり通ったのか。それは海軍の首脳部が低脳な連中によって占められていたからということらしい。

海軍といえども、優秀な人がいなかったわけでは無論ない。しかし優秀な人たちと云うのは、とかく組織にとって邪魔な存在になるものだ。山本五十六や井上成美などは、そうした数少ない優秀な人材だったけれども、ついには中枢から排除されて現場に追いやられてしまう。彼らはまだましだ。海軍の組織そのものから追い出されたものもたくさんいる。その結果低脳な連中ばかりが海軍中枢にはびこることとなり、アメリカを相手に長期的な展望をもって戦うなどとんでもないことになってしまった。

半藤さんはいう。「組織と云うのは不思議なくらいに、少しとびぬけて一歩進んだ人はいらないんです。邪魔なんですね。排除の論理と云うか、阻害の論理というか、<おれたち仲良くやってんだから、おまえ、そんなつまんない変なことをいうな>というような、排除の精神が動くんです。どこの会社や組織でもそうだと思います」中でも軍隊というものは、その排除の論理が最もよく働く、というわけである。

海軍の軍人に対する教育も、問題があったと半藤さんは言う。海軍大学校などは、戦術のことばかり教えていた。その結果戦争のお化けのような人間ばかりが作られて、健全な良識のある人間を育てようとしなかった。目先の利かない、幅の狭い人間ばかりが、海軍という組織を動かすことになった。

そういう人間には、戦争の第一線で戦う兵士たちへの思いやりのかけらもない。それは戦争の責任を組織全体の責任に棚上げして、個人の責任を感じなかったことに基づいていると半藤さんは言う。だから兵士たちへの自殺の強要に他ならない特攻命令も平気で出せる。

半藤さんはいう。「軍隊というものの、それを指揮する人たちが、末端の人たちの事なんか全然、考えない。それこそ、一銭五厘のはがきで連れてこられる」澤地さんも、「軍馬より、おまえらのほうが安い」といって、軍隊というもののもっていた非人間性を告発するのだ。

そこで澤地さんは重い言葉を吐く。「せっかく反省会をやったのなら、もう少し、人間的な痛みというものはあってほしかったですよ」

ところで、海軍反省会のようなものが、歴史研究の上で画期的な重みをもっているのは、戦争の指導者たちによるある程度ざっくばらんな意見が肉声を通じて語られたということが無論あるが、陸軍も含めて終戦時の軍上層部が、戦争にかかわる第一級資料をことごとく消滅させ、貴重な資料の多くが失われたという事情もある。それ故、アジア・太平洋戦争の研究者は、資料の収集に非常な困難を感じるという。

海軍反省会の記録は、当事者による言明という性格から、当然自己弁護的な証言が多く含まれているし、発言者は微妙なことにはなかなか触れようとしないようだ。その発言の結果、傷つく人もいるわけだし、もしかしたら自分自身の責任にも跳ね返ってくるかもしれない。

過去を過去としてきちんと認識し、その成果を未来に繋げていくためには、地道な資料集めが必要なのだ、と改めて感じた次第だ。


    

  
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