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東京大空襲の記録


東京大空襲を記録した写真583枚が文京区の民家から出てきたといって、NHKがその内容を紹介する番組を組んだ。(NHKスペシャル「東京大空襲 583枚未公開写真」)

東京大空襲といえば、昭和20年3月10日未明の空襲にスポットライトが当てられてきて、それ以外の空襲についてはあまり知られることがなかったが、実際には昭和19年の11月から20年の5月までの半年間に100回以上にわたって空襲が行われ、東京都民に深刻な災害をもたらしていた。今回見つかった写真は、昭和19年11月24日に行われた荏原地区への空襲をはじめとして、3月10日の空襲も含め、多くの空襲の模様を記録していた。

テレビ画面に映し出されたそれらの写真の一枚一枚には、破壊のすさまじさと、被災した都民の途方に暮れたような無力な表情が印象的に映っていた。

度々空襲にさらされた東京都民の大部分は、これらの空襲が軍事関連の施設を狙ったものだと思い込まされてきたが、実際には一般の市街地を標的にしたものであったことが、米軍の資料などから明らかになっている。11月24日の第一回目の空襲においても、多摩地区にあった旧中島飛行機の工場が第一目標に設定されていたが、多くのB29は、はじめから荏原地区などの市街地に大量の爆弾や焼夷弾を落していったのである。

米軍は、東京の一般市街地を空襲の標的にすることに関して、その意図や目的を明らかにしていないが、それらが一般市民を含んだ無差別大量殺戮であったことは疑いえない。その証拠に、米軍は東京の下町の市街地を想定した設備を作り、それを用いて焼夷弾による市街地消滅実験を繰り返していた。3月10日における空襲では、浅草、本所、深川に広がる下町地区に狙いを定め、まず地域の周辺部を火の海とすることで住民の退路を断ち、火の中に取り残された形の住民を徐々に焼き殺す作戦をとっている。実に残虐なやり方だったわけである。

NHKはその空襲に参加した元米兵にインタビューしていたが、その男は自分のしたことがどんな意味を持っていたか、少なくとも反省はしていない様子だった。アハハハハで終りである。

米軍の空襲は3月10日以降本格化し、5月までの2か月間の追加空襲で、東京の市街地の半分以上が焼失した。3月10日の空襲では32万発の焼夷弾が落とされたというが、5月25日にはその倍近くの数が落とされ、3200人が死亡した。3月10日の死亡者は正確には分からないが、10万5000人と推定されている(東京都慰霊堂による)。

今回見つかった写真は東方社という報道写真機関によって撮影されていた。東方社は陸軍の許可を受けた報道機関で、あの木村伊兵衛が代表をつとめていた。木村は配下のカメラマンに向かって、現場で起きていることを後世に残すのが我々カメラマンの使命だと、常々言っていたそうである。

その記録の大部分は、戦後占領軍による戦争犯罪追及の資料にされることを恐れ、殆どすべてが焼却されたが、これらの写真は運よく残されたということらしい。


    

  
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