餓死、水没死、特攻死:アジア・太平洋戦争
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旧厚生省によれば、日中戦争の発生から敗戦までの日本人の戦没者数は、軍人、軍属などが約230万人、外地の一般邦人が約30万人、空襲などによる国内の戦災死没者が約50万人、あわせて約310万人である。この数字の中には、朝鮮人。台湾人の軍人、軍属の戦没者約5万人も含まれている。
しかしこの数字には疑問がある、と吉田裕氏はいう(アジア・太平洋戦争「岩波新書」)。外地での一般邦人に含まれている沖縄県民の戦没者は9万5000人になっているが、それは過少見積もりではないか、ある推計によれば15万―16万にのぼる、というのが一点。また空襲による死者の数には、川崎市や那覇市など大規模な空襲を受けたにもかかわらず死者の数がゼロとされているなど、実態を正確に把握していないというのがもう一点だ。
この戦争による日本人の戦没者数は310万人を上回る可能性が強い、そう氏は主張する。
日本の占領下にあったアジアの国々の人たちもまた、数多く戦災によって死没している。氏はその数を、中国では1000万人以上、朝鮮では約20万人、フィリピンでは約111万人、台湾では約3万人、マレーシア・シンガポールでは約10万人、その他ベトナム、インドネシアなどを合わせて、総計で1900万人以上になると推測している。
交戦国の人的被害については、アジア・太平洋戦域におけるアメリカの戦死者数は約10万人、ソ連軍は、張鼓峰事件、ノモンハン事件、対日参戦以降をあわせて2万2694人、イギリス軍は2万9968人、オランダ軍は2万7600人である。
日本側の戦没者の大多数は、戦争末期に集中している。敗戦を早期に受け入れ、早めに戦争をやめておけば、防ぐことのできた犠牲者たちだ。
ところで、この戦争による死者には、特異な死に方をした兵士たちがいるのが特徴だ、と吉田氏はいう。その特異な死に方とは、餓死、海没死、特攻死の三つのパターンだ。
日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数230万人のうち、実に60パーセントに当たる140万人が餓死した。栄養の不足によって文字通り飢え死にしたもののほかに、栄養失調により体力を消耗し、マラリアなどの伝染病で死んでいった広義の餓死者も含む。
これは、国力を超えて戦線を拡大したうえに、連合軍の攻撃によって補給路が分断され、必要な食糧や装備品が供給されなかった戦場が広範に存在したことに起因している。特にアメリカ軍の飛び石作戦によって、取り残されて孤立した日本軍守備隊が各地に発生した。彼らはジャングルの中で飢死するほかなかったのである。
海没死は艦船の沈没による死である。アジア・太平洋戦争中に、連合軍の攻撃によって、軍艦651隻、陸海軍の徴用船を含む商船2934隻が沈没し、海軍軍人・軍属18万2000人、陸軍軍人・軍属が17万6000人、商船船員・民間人など4万5000人乃至7万1400人、合わせて39万8500人乃至42万9400人が戦没した。
これだけ多数の人が溺れ死んだことの背景には、海軍がアメリカ艦隊との決戦のみを考えて海上護衛戦を軽視したこと、船舶の不足を補うために無闇に多くの人間を乗船させ、沈没した時の被害を拡大させた事情などがある。その中には沖縄からの疎開児童682人が死亡した「対馬丸」の事例なども含まれている。
特攻隊が登場したのは、1944年10月のフィリピン戦線において海軍の神風特攻隊員がアメリカの軍艦に肉薄攻撃をしかけたことに始まる。その後陸軍も特攻攻撃に加わるようになり、沖縄防衛線では陸海軍あわせて2千機の特攻機を出撃させた(菊水攻撃)。こうした航空特攻による戦死者は約4000人に上る。そのほか特攻のバリエーションとして、「震洋」などのモーターボートによる体当たり攻撃や、人間魚雷「回転」による体当たり攻撃などもあった。
航空特攻作戦は、フィリピン戦線の司令官大西滝次郎中将が考案し推進したものだとされてきたが、その後海軍中枢が深くかかわっていたことが明らかにされている。
特攻機は急降下するときにかかる揚力を相殺するために、機体に相等の改造をしなければならない。現場の一時しのぎの対策では間に合わないのだ。それ故に、特攻用の特別仕様の飛行機をシステマティックに制作し、それに兵士を乗せて体当たりさせたわけだ。
人間魚雷に至っては、1944年2月の時点で、海軍中央部による試作機制作の指令が出ている。大西中将は海軍の中枢部と十全な打ち合わせを行ったうえで、特攻作戦を遂行したのである。
特攻隊の問題は、人間の命をまるで消耗品のように軽く見る、日本の陸海軍指導者の非人間的な体質がもっとも露骨に現れたところだ。
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