日本語と日本文化


昭和天皇独白録を読む


文春文庫版の「昭和天皇独白録」を読んだ。昭和21年3月18日から同4月8日までの延5回にかけて、松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、松平康昌宗秩寮総裁、稲田周一内記部長及び寺崎英成御用掛の5人に、昭和天皇が独白と云う形で、大東亜戦争の遠因から戦争遂行への天皇自身のかかわりなどについて率直に語られたものを、寺崎英成が記録したものだ。

これを読んで筆者が感じた全体的な印象は、昭和天皇は巷間言われているよりはるかに主体的に日本の政治にかかわり、大東亜戦争にも大きな影響を行使していたということだ。これまでの昭和天皇の標準的な像は、立憲君主としての自覚のもとに、政治には極力距離を置いてきたというものだったが、実際の昭和天皇は内閣の組閣から解散、日本外交のあり方に対する発言など、歴史の節々で影響ある行動をなされている。

この独白録は張作霖爆殺事件のことから始まっている。この事件が陸軍の陰謀であると疑った天皇が首相田中義一に調査を命じたところ、田中がのらりくらりとして何もしないのに苛立ち、辞表を出してはと、天皇は強い語気でいった。その直後田中内閣は総辞職し、田中自身は程なくして死んだ。

このことに多少の反省をなされた昭和天皇は、「内閣の上奏するところのものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」というが、事実はその後も天皇は節々に政治の動向に主体的にかかわった。あるいはそうせざざるを得なかった事情があった。

昭和天皇が大東亜戦争にとって果たした決定的な役割と云えるものは、日米開戦を認めたことと、無条件降伏を決定したことだろう。

米英との戦争については、昭和天皇は一貫して反対だった。そして節々でその意思を政治家たちに示した。しかし誰も昭和天皇のいうとおりに動いたものはいなかった。そういう状況を前に昭和天皇は、諦めのような気持ちから日米戦争を認めるようになるのだが、自分が何故そうした態度をとられたかについて、こんな興味深いことをいわれている。

「若しあの時、私が主戦論を抑へたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈するといふので、国内の世論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであらう。実に難しいときであった」

またこうも言っておられる。「若し私が海戦の決定に対してベトーしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それはよいとしても結局強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びることになったと思ふ」

昭和天皇は昭和17年12月10日に伊勢神宮を参拝された時の気持ちを、次のように述べられている。

「勝利を祈るよりもむしろ速やかに平和の日が来るやうにお祈りした次第である」と。つまり、ご自身は一貫して平和を望んでおられたと。事実天皇は、何度か国民向けに戦意高揚の檄を飛ばしてもらいたいとの要望に対しては、戦争を煽らぬのが日本の皇室の伝統であることを根拠にしてことごとく断られた。

終戦に当たっての昭和天皇の役割には偉大なものがあった。何も決められぬ政治家や重臣たちを尻目に、昭和天皇は自ら終戦の意思を固め、それを最高戦争指導会議と閣僚との合同御前会議で表明し、日本の国論を終戦に向けて強力に引っ張ったと自負しておられる。

たしかに昭和天皇が存在していなかったら、日本の近代史がどのような方向に向かったか、考えさせられる点である。

なおこの独白録には、日本の政治家たちや軍人に対する天皇の極めて辛辣な人物評が盛り込まれている。

まづ、政治家の中では昭和天皇と最も近い間柄にあり、昭和天皇も一定の評価をしていたといわれる近衛文麿のことを「確固たる信念と勇気を欠いた」と評されている。

東条英樹の後を継いだ小磯国昭については、「側からいはれると直ぐ、ぐらつく、云ふことが信用できない」と評し、宇垣一成については、一種の妙な癖(曖昧な言い方をする)があり、「このような人は総理大臣にしてはならぬと思ふ」といっている。また広田弘毅については、玄洋社出身かもしれぬが軍人のような物の言い方をするといって煙たがっておられるようである。

昭和天皇がもっとも嫌悪していたのは松岡洋右だ。その性格の悪さまで云々し、「一体松岡のやることは不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人のたてた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別に苦にしない、特別な性格を持ってゐる」といい、その松岡がドイツびいきになったのはヒトラーに買収でもされたのではないかと辛辣なことをいっておられる。

昭和天皇がもっとも信頼していたのは米内光正だった。また東条英機もある程度は信頼していた。「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮稠密で中々よいところがあった」

その東条が人に嫌われたのは、「事務的にはいいが、民意を知り・・・特にインテリの意向を察することができなかった」と同情せられている。


    

  
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