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中村政則「坂の上の雲」と司馬史観


「司馬史観」の名で知られている作家司馬遼太郎の日本近代をめぐる歴史観は、圧倒的な数の日本人に深い影響を与えてきた。小生は戦後まもなく生まれたいわゆる団塊の世代に属するものだが、学生時代の仲間たちと会うと、司馬史観がよく話題になる。メンバーの誰もが司馬史観に疑問をもっていない。司馬にやや距離を置いている小生などが司馬を批判しようものなら、ほかの連中から総攻撃を食らいそうな勢いだから、あえて司馬の悪口は言わないようにしている。ことほどさように、司馬は多くの日本人を呪縛しているといえる。

中村政則は日本近代史の歴史学者だそうで、その専門家の立場から司馬の歴史観を批判している数少ない人の一人である。中村の司馬批判の要点は、日本史をあまりに単純化し、そのために日本の近代を複合的な視点から見ることを妨げているということに尽きる。司馬は日本の近代を、明るくて希望に満ちた明治と、暗くて亡国への道を進んだ昭和という形に、非常に単純な二項対立図式にあたはめてしまった。その結果大正時代のもつ歴史的な意義をほとんど無視することになったし、明治を理想化するあまり、それが内在させていた負の側面に目をつぶった。中村によれば、昭和のいわゆる異胎の時代は、突然変異のように生じたのではなく、明治にその萌芽をもっていた。だから明治と昭和とを二項対立的に切り離すのは間違っているということになる。日本の近代史はそんな単純な枠組に収まらぬ複雑なものだったというのが中村の見立てである。

中村は司馬のそうした単純極まりない歴史観が日本の右派勢力に強い影響を与えたと言う。中村は、藤原信勝や西尾幹二など「新しい教科書を作る会」のメンバーを取り上げ、かれらの歴史観が司馬の焼き直しに過ぎないと喝破した。だから、かれらが進めている右翼的な教育を批判するためには、かれらと司馬との深い結びつきを指摘し、そのうえで、司馬の歴史観は一面的なのだから、それに依拠する「作る会」の歴史観も一面的であり、強いイデオロギー操作を思わせることを指摘したかったということらしい。

中村は歴史学者としての立場から、司馬の歴史認識のいい加減さを厳しく指摘している。司馬は資料の読み方もいい加減であり、また、厳密な論理的な推論ではなく、感覚的な思い込みで歴史上の出来事の意義について判断するところがある。司馬のそうしたいい加減さは小生もかねがね感じていたところなので、中村の司馬のいい加減さの指摘は、腑に落ちるものがある。司馬のいい加減さの一例をあげると、かれは現代日本語の重要な助動詞「です」の語源を「であんす」という廓言葉にあると断定した。そかしその廓言葉が何に由来したのかについては何も語っていない。あたかも廓の中に「であんす」という言葉が自然発生的に生じ、それが一般社会に伝播したと言っているかのようである。「であんす」が「です」に音韻変化したのは一つの愛嬌とみなすことができるが、その「です」の語源は、中世に流行した「にてさうらふ」が音韻変化したのものである。司馬はこのような国語学会の常識に一切目を通さないで、自分勝手な解釈をまきちらしたわけである。司馬はまた、「ばか」の語源はヒンディー語の「マハー」だと言ったが、「ばか」が日本古来の言葉「をこ」の音韻変化した形であることは柳田国男が指摘したとおりである。司馬の議論はだいたいこんなもので、まったく根拠のない自分勝手な思い込みに立って、いい加減なことばかり言っているといってもよい。

こんなわけだから、中村の司馬を見る目は非常に厳しい。そうした中村の態度は、単に司馬の批判を目的としたものにはとどまらない。司馬の史観が「作る会」などの右翼的なイデオロギーの基礎となっていることに着目してのことでもある。司馬の歴史観は大勢の日本人を魅惑しつづけているので、その司馬の言説を利用すれば、日本人の歴史意識に働きかけることもできる。かれらは実際、司馬の言説をオウム返ししながら、日本人の愛国意識に訴えている。だが彼らによる司馬の利用は非常に偏ったものだ。司馬は昭和の暗い時代を否定しながら、昭和の時代に日本がアジア諸国に対して行った野蛮な侵略行為を厳しく批判したのだったが、藤岡ら「作る会」のイデオロギー史観には、そうした日本にとって都合の悪いことは一切省かれてしまっている。彼らにかかると、対アジア戦争は大東亜戦争というべきであり、その本質的な意義はアジアへの侵略などではなく、欧米のくびきからアジアを開放することにあったということになる。かれらによれば、「大東亜戦争」はアジア解放戦争であったのであり、日本にとって国家の生存をかけた祖国防衛戦争であったということになる。一国の歴史の見方にはいろいろなものがありうるが、「作る会」のこうした見方は、あまりにも日本中心主義の身勝手な解釈と言わざるを得ない、というのが中村の基本的な見方であるといえる。

中村によれば、「作る会」の連中は、司馬を自分たちの都合のよいように読み替えている。そのことで司馬という人間の持つ豊かな面を消し去っている。かれらによる司馬のイメージは偏狭な国粋主義者ということになってしまうが、それは司馬の本意ではないし、また、司馬を貶めることだと中村は強く批判している。要するに、批判すべきところは厳しく批判する一方、評価すべきところは正しく評価するというのが、司馬に対する中村の基本的な姿勢である。

この本は、タイトルにあるとおり、司馬の長編歴史小説「坂の上の雲」を材料に使っているので、当然のことながら小説の内容についての言及が多い。その中で小生の関心を特に引いたものを二つあげたい。一つは乃木将軍の評価に関するものである。乃木は愚将と言われ、その無能な指揮ぶりが嘲笑の的となってきた。司馬もそうした評価に乗って、乃木を無能扱いしている。しかし事実をよく検討すれば、乃木のとった作戦は当時の軍事的な常識を踏まえたもので、決していい加減なものではなかった。司馬は世間のムードに悪乗りする形で乃木無能論を展開するにあたり、作家として当然なすべき取材を怠ったということになる。小生も乃木無能論をある程度信じていたので、中村のこの指摘は意外に映った。

二つ目は正岡子規の扱い方。司馬は子規が好きだったようで、この小説の中では秋山兄弟以上に子規を生き生きと描いている。この小説全体の魅力がそこにかかっていたほどで、じっさい子規が死んだあと小説は急に詰まらくなくなったという人は多い。司馬自身も、子規の死後小説をどのように書いたらよいか迷ったと言っているほどだから、子規の存在感が圧倒的だったことがわかる。明治を生きた人間の中で子規がもっとも素晴らしい一人だったと思っている小生は、その子規が生き生きとした雰囲気の中で言及されているのに接して、うれしくなったほどだ。小生が司馬に共感する部分があるとして、その理由の大部分は、子規へのかかわり方の共通性にある。



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