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栗原俊雄「シベリア抑留ー未完の悲劇」


栗原俊雄は毎日新聞の記者だそうだ。日本現代史に強い関心があるらしく、「戦艦大和」などアジア太平洋戦争をテーマにした著作がある。ジャーナリストらしく、戦争体験者への聞き書きを中心に、戦争の実態を微視的に浮かび上がらせる手法をとっている。「シベリア抑留ー未完の悲劇」(岩波新書)と題したこの著作も、関係者へのインタビューを中心に組み立てている。当初毎日新聞に連載したものをもとに、この本を書き上げたということだ。

シベリアに抑留された日本人は、関東軍兵士を中心にして64万人、うち約8万人が死んだ。5万5千人という説(日本政府の説)もあるが、これには労働力として使えないという理由で送り返され、その途中に死んだものが含まれていない。その数は2万3000人にのぼるが、それを日本政府は抑留被害者に含めていない。しかし抑留が原因で死んだのだから、それも含めるべきだと栗原は言う。

抑留された日本人は、大きく二派にわけて帰国した。第一波は1946年~1950年、第二波は1953年~1956年である。第一波は、日本はまだ独立前なので、アメリカを窓口にして帰還の交渉をした。第二波は、日本の独立をきっかけにして、日本政府が直接交渉にあたった。とくに鳩山内閣がその任にあたったが、鳩山は被抑留者の帰還を最優先するあまり、北方領土については妥協したというのが北原の見方である。そういう言い方をストレートにしてはいないが、ソ連が抑留者を人質に使ったという言い方はしている。

抑留者の置かれた状態においては、これまでさまざまなルートで明らかにされてきたところであり、特に新たな指摘は見当たらない。ただ、被抑留者に直接インタビューしたり、また、かれらの書いた手記の類を数多く引用しているので、史実の重みは感じさせる。

栗原は、被抑留者の「三重苦」といわれる悲惨な状況を説明することとならんで、この問題についての日本政府の姿勢や、帰国後被抑留者が被った差別などの不合理な出来事にも大きなウェイトをかけて触れている。日本政府の姿勢としては、なぜ兵士たちをソ連に連行させるがままに放置したのか、ということと、帰還後における元被抑留者への国家としての償いとがあげられる。前者については、関東軍とその後ろ盾としての日本政府に、棄兵・棄民の思想があったのではないかと、栗原はいくつかの証拠を示しながら指摘している。それに対応するかのように、帰還後の元抑留者への対応もそっけないものだった。日本政府は、彼らに対する国家としての責任を一切認めず、賠償も当然しなかった。雀の涙ほどの慰労金でごまかそうとしただけである。これに対して国家賠償の訴訟をおこした当事者たちは、自分たちは金のために戦っているのではなく、名誉のために戦っているのだと叫んでいた。

じっさいシベリアの被抑留者たちは、帰還後差別にさらされ、人間としての尊厳を失ったと思う人が多かったのである。それには、日本人の対ソ感情の極度の悪化があり、そのソ連に抑留された日本兵は、ソ連に洗脳されて「アカ」になったのではないかという思い込みが強く広まっていたことが働いていたようである。帰還者の中には、親ソ的な言動をするものが数多くあり、そうした人々が国民の反感をかったということがある。強烈な反ソ感情があるうえに、そういう事態が重なったものだから、日本人がソ連から帰還した人たちに強い懸念を持ったということには、ある程度の理由を認めることができそうである。

この本は、大部分の被抑留者たちが死んでしまった後のことまで視野に入れている。戦後長い間、日ソ間には深い断絶があったために、抑留の実態についてや、死亡者の状況についての調査がほとんど進まなかった。そのため、日ソ間で国交が回復した後、墓参をしたいという遺族の願いが、スムーズに実現することがむつかしかった。資料が散逸したり、目撃者が死んでいなくなったためだ。そんなこともあって、シベリア抑留をめぐる問題は、まだまだ進行形だというのが栗原の受け止め方のようである。

この本に限らず、この手の本を読むと、ソ連の非人道的な政策や非人間的な処置への怒りが湧き上がってくるようになり、日本人としての被害感情ばかりが前景化するのであるが、よくよく頭を冷やして考えれば、捕虜の扱いや被占領国の民衆への処断をはじめ、日本も相当ひどいことを行っているわけで、被害者面をしてばかりもいれらないところはある。だが日本は、ソ連に対してひどいことをしたわけではなく、従ってソ連は日本に対して一方的にあくどいことをしたとは言えそうである。

この本の中で強く印象に残ったのは、ドイツ兵と日本兵の比較だ。ソ連に抑留されたドイツ兵は238万人にのぼった。ドイツ兵はソ連領内に攻め込んで暴虐の限りをつくしたわけであるから、その償いをさせられることにはある程度理由がないともいえない。しかし日本兵は、ソ連の領土内に攻め込んだわけではなく、ソ連に対して一方的な損害を与えたわけでもない。にもかかわらず抑留されて強制労働をさせられたのは、ソ連の労働力不足を補うためであったが、その原因を作ったのはドイツであって日本ではない。そういう事情があるにかかわらず、日本兵にはソ連に対して卑屈に振る舞うものが多かった。無理なノルマもなんとかこなそうとし、その結果更に高いノルマを課せられるという笑い話のような振舞いもした。一方ドイツ兵は、ソ連におもねることなく毅然としていた。かれらはノルマ以上に働いて、自分の首をしめるようなことはしなかった。末端の兵までが国際法を熟知し、主張すべきことはきちんと主張する。そもそもドイツ人は、自分たちのほうがロシア人よりすぐれていると思っており、ソ連を見下していた。それが「堂々たる捕虜ぶり」につながったというわけである。そのドイツのほうが、戦犯を含めてすべての捕虜の帰還を日本より先に実現した。問題の解決に向けての政府の姿勢の違いがそこに現れていると栗原は言いたいようである。

この本の最後で、栗原は高齢の元被抑留者へのアンケートに触れ、「今、ロシアにどんな気持ちを持つか」との問いに対して、「人権、人道を持ち合わせていない」、「嘘で固めた国」といった不信感を現わしたものが多かったことを紹介している。これは、虐待された側が、虐待したものに対して感じるありふれた気持ちをあらわしているといってよい。なにもシベリア抑留問題に限られるわけではない。重要なのは、三重苦といわれるような苛酷な境遇を生むのも、相手に対して強い憎しみを感じるのも、その究極の原因は戦争そのものにあるということだ。



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