日本語と日本文化


半藤一利「ソ連が満州に侵攻した夏」を読む


スターリンが対日参戦を決断したのは、アメリカやイギリスを助ける為(連合国に対する義務)ではなく、まして軍国主義に対する民主主義の勝利の理念からなどではなく、自分自身の野心を成就させるためだった。その野心とは、日露戦争の敗北によって失ったものを取り戻すことだった。著書「ソ連が満州に侵攻した夏」の中で、こう半藤さんは断定している。

スターリンはその野心を、1945年9月2日に行った対日戦勝演説のなかで次のように語っている。

「この(日露)戦争でロシアは敗れた。その結果日本は南サハリンを掠め取り、千島列島にどっしりと腰を据え、かくして我々の太平洋への出口を閉ざしてしまったのである・・・この戦争での敗北は、我が国民の記憶の中に苦い思い出となって残った。またこの敗北は我が国に汚点をしるした。我が国民は、日本が粉砕されこの汚名のそそがれる時が来ることを信じ、ひたすらその時を待ちつづけてきた。40年間、我々古い世代の者は、この日を待ち望んだ。そして、いまここにその日が訪れたのである」

スターリンは、この野心を成就させるためには、日本を戦争で破ることによって、戦利品としての資格に於いて、南樺太や千島列島を掠めとる必要があった。第二次世界大戦の終了間際に至って、スターリンが対日参戦を急いだ理由はそこにあったのである。

スターリンのこの野心は成就され、ソ連は日露戦争で失ったものを取り戻しただけではなく、日本固有の領土の一部(北方諸島)と55万人に上る人的資源(日本人の強制連行)を獲得した。

ソ連の対日参戦が終戦直前まで伸びたのは、対独戦争の始末が遅れたためである。ソ連は対独戦に戦力を集中させるために、対日東部戦線を開くわけにはいかなかった。日本との間で日ソ中立条約を結んだのも、東部戦線を平和裏に安定させるためだったのだ。

だから独ソ戦に始末がつくや否や、スターリンは猛烈な勢いで兵力を東部戦線に移動させ、長崎に二発目の原爆が落とされた8月9日に、ソ満国境を超えて侵攻してきた。

日本側はそうしたスターリンの思惑については何ら知るところはなかった。それどころか、米英との停戦交渉の仲立ちをソ連側に依頼するほどのお人よしぶりだった。

ソ連に停戦交渉の仲立ちを依頼するために、近衛文麿をトップとして使節団が結成された。結局この使節団が派遣されることはなかったが、その交渉のための要綱案なるものが残されている。それを読むと、実に唖然とさせられることが書いてある。

「国土については・・・固有本土を以て満足す。固有本土の解釈については、最下限沖縄、小笠原、樺太を捨て、千島は南半部を保有する程度とする」
「賠償として、一部の労力を提供することに同意す」

沖縄、小笠原は放棄し、強制労働の提供にも応じようというのであるから、驚くほかはない。

スターリンが人的資源による賠償を米英に飲ませたのは、ソ連がドイツによって蒙った破壊の規模があまりにも巨大であることに米英が一定の理解を示したためだ。そこにはドイツに対する懲罰の意味合いもあった。しかし日本はソ連に対して全く損害を与えていない。だからソ連が日本に対して賠償を求める根拠はないはずだ。

スターリンは、日本にもドイツに対して行ったと同様の強制労働を強要したほか、樺太、千島、北方諸島に加え、北海道の北半分の占領まで要求した。さすがにこの要求はアメリカの反対により実現しなかったが、仮に実現していたらと考えれば、背筋の寒い思いがする。今頃は日本の北部に、「日本民主主義人民共和国」なるものが存在していたかもしれない。

スターリンはまた、日本軍が去ったあとの満州にも利権を確立しようとした。日露戦争によって失った旅順港の租借権や、鉄道に関する権益である。だがこれは本来中国政府との間の問題だ。日本に勝ったからと云って、日本が中国から強制的に奪っていたものを自分のものとして引き継ぐ権利は、ソ連にはない。しかし勝利に驕ったスターリンには、満州の権益も戦利品の一つとして映った。

さすがに中国の主権にかかわるようなものは実現できなかったが、スターリンは満州に残された日本の財産を、国民党の抗議を無視してソ連国内に持ち去った。まさに強盗そのものの行為である。


    

  
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