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佐藤忠男「長谷川伸論」


佐藤忠男は本職が映画評論家だから、映画を通じて長谷川伸に親しんだのだろう。長谷川伸と言えば、戦前から戦後にかけて、(戦中と戦後の一時期権力によって抑圧されたことはあったが)日本の映画界では人気のある作家だった。当時の映画界では、股旅ものとか仇討ものが最も大きな人気をとったが、長谷川伸はその分野を代表する作家だった。

佐藤はしかし、長谷川伸を映画に原作を供給した作家としてだけではなく、一時代の日本的な価値観を体現した人間としても評価していることが、彼の「長谷川伸論」からは伝わってくる。日本的な価値観というと、武士道とか幽玄とかいうものが想起されるが、佐藤が長谷川伸を通じて感じとった日本的な価値観とは、庶民の生き方を支える価値観だった。その価値観を佐藤は、同じく日本の庶民階層の出身者として、長谷川が体現していることに、親しみを感じたらしいことが、彼の文章を通じて伝わってくるのである。

長谷川が体現している価値観を佐藤は、義理人情と意地に見ている。長谷川の書いた作品は、大雑把に分類すると股旅ものと仇討ものとに分けられるが、そのうち股旅ものは主として義理人情を、仇討ものが意地をテーマにしていると佐藤は見る。これはざっくりとした分け方で、股旅ものにも意地の要素はあるし、仇討者にも義理人情の要素はある。あくまでも、典型に注目した分け方だ。

義理人情と言えば、近松の浄瑠璃の世界が想起されるが、近松の場合には義理と人情とは対立関係にあるのに対して、長谷川の場合には両者は対立関係ではなく、補完関係にあると佐藤は言う。近松の場合には、義理というのは人情とは別の基盤を持っていて、したがって両者が対立関係に陥ると、義理をとるか人情をとるかの葛藤を呼び起こす。長谷川における義理とは、人情と対立するものではなく、むしろ人情によって支えられるという関係にある。したがって義理のしがらみに迫られると、ひとは無理を承知でそれを通そうとして意地を張ることになる一方、義理が人情によって支えられていないと、人間関係そのものを破壊したいという衝動を呼び起こす。

こんなわけで、近松の場合には義理と人情との対立という形をとるものが、長谷川の場合には義理人情の一体化という形をとる。この相違は、日本社会の変化に根差している、そう佐藤は見るのである。

股旅ものとはやくざの世界を描いたものだが、そこで取り上げられた人間関係は義理人情の典型的なあり方だった、そう佐藤は見る。やくざの世界では一宿一飯の義理が疑似親子関係にともなう人情と結びついている。そこではだから、義理と人情とは対立するものではなく、互いに支えあう関係にある。それゆえ、義理が立たないときは人情もまた危機に陥る。その逆もまた真で、人情に反する義理は立ちえない。そんな場合に、人間としてのアイデンティティを保とうとすれば、義理人情を投げうって人間関係自体を解消するほかはない。義理か人情かではなく、義理も人情もなのである。長谷川伸の股旅ものは、そうした義理と人情が一体化した世界を描いている。

一方、仇討ものは、庶民ではなく武士の世界を描いている。そこで最大の問題となるのは、義理人情ではなく意地である。意地はやくざの世界でも見られたが、武士の世界ではもっと先鋭的な形をとる。仇討はその最たるもので、武士としての意地を通すこと、それが仇討の本質とされる。

仇討は徳川封建社会のなかの武士の間で行われた風習で、庶民とは無縁なものである。庶民同志の殺傷事件は、公儀がこれをさばき、罪を犯したものは公に罰せられた。ところが武士同士の殺傷事件は、公儀の介入を待たずに、関係者の間で解決するというのが掟だった。仇討が半ば制度としての色合いをもって行われたわけである。なかば制度であるから、親を殺された子には、それを回避する自由はない。ほぼ強制的に仇を討つことを期待されるわけである。彼を仇討ちに駆り立てるのは、無論私憤もあるだろうが、それ以上に武士としての意地である。武士の体面上仇討をしないではおられないわけである。

武士の意地を描いたものとしては、鴎外晩年の一連の作品がある。「阿部一族」はその典型だが、意地を仇討ちと絡ませたものもある。鴎外の場合には、武士の意地を、評価を極度に抑えて淡々と描くことに徹していたが、そこに評価を交えながら仇討における武士の意地を描いたものとして菊池寛がいる。菊池の場合には、武士の意地がいかにつまらぬものかという批判が来るわけで、長谷川も初期の作品ではそういう視点を取り入れていたが、そのうち仇討を意地の問題として淡々と描くようになった。

この意地と義理人情との関係について佐藤は次のように書いている。「封建的人間にとっては、不条理な処遇とは、義理の関係から、それにふさわしい情の欠落している状態を言うのであり、自分が義理をつくしたにかかわらず情によって報いられぬ場合は、反抗によってではなく、意地を張りとおすことによって情の回復を祈願することになるのである。長谷川伸の仇討ち研究は、日本人の復讐の研究というより、屈辱的な状態に置かれた場合の意地の張り方の研究というべきものである」

仇討ちは武士の風習であるから、そこには封建的な人間にとっての共通する心情としての意地の他に、名誉の感情が働いていることも否めない。というより、従来の仇討論の多くは、意地を通すというよりは、武士の名誉を守るという視点から解釈されたものである。こうした見方の典型を佐藤は三島由紀夫に見ている。そして三島がそのような見方をしたのは、三島が上流階級としての自覚から自分を武士に一体視していたからだとしている。三島に対する佐藤の評価は辛らつだ。佐藤は言う。「三島由紀夫は、昭和元禄における水野十郎左衛門であるかもしれない」と。



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