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妾の半生涯:福田英子の自叙伝


福田英子といえば、自由民権運動の女闘士として歴史に名を残した女性だ。また日本初期の社会主義者として女性の解放運動に尽力したことで知られている。その福田が自分の半生について語ったのが「妾の半生涯」。彼女の自叙伝というべきもので、出生から三十代半ばまでの半生について語っている。彼女の半生を彩る最大の事件は、明治十八年の「大阪事件」であることから、この自叙伝はおのずから大阪事件を中心に展開する。彼女はなぜこの事件にかかわるようになったか、その結果にぶち込まれた黎明期の日本の近代監獄の様子がどのようなものだったか、そして釈放後の娑婆で思いがけない歓迎を受けたことや、男たちとの決して幸福だとはいえなかった関係などが語られ、読み物としても興味深いものとなっている。

「大阪事件」というのは、明治十八年に起きたもので、大井憲太郎以下当時の自由民権運動の闘士と言われるメンバーがかかわっていた。福田英子はそれにただ一人、紅一点の女性活動家として加わったことで、一躍自由民権の女闘志とか、日本のジャンヌ・ダルクとか呼ばれてもてはやされた。この事件は、孤立して起きた事件ではなく、当時自由民権運動に対する官権の弾圧に抗するかたちで日本中でわき起こった数多くの実力行使運動の一つとして起こったものだ。これらの運動には二つのパターンがあって、秩父事件のように広範な民衆の支持に支えられた一揆的な様相のものと、一部の跳ね上がり分子による冒険主義的な行動とに分けられるが、大阪事件はどちらかといえば後者のタイプに属していた。しかし大井憲太郎らの幹部がかかわっていたということで、自由民権運動への弾圧として、世間から大きな注目を浴びたものである。

この事件は、朝鮮の情勢が絡んでいる。当時朝鮮では清との関係を巡って政争が起きていたが、大井らはこれに介入して朝鮮に独立の機運を巻き起こし、その独立運動を日本の自由民権運動と連鎖させ、権力によって弾圧あるいは懐柔されつつある日本の民主主義運動を盛り立てようとする意図をもっていた。それに福田がただひとりの女性としてかかわるわけであるが、彼女がなぜこれにかかわるようになったか、その動機のようなものがこの本の中で語られている。それを読むと、彼女には政治状況に対する明確な理解があったとは必ずしも言えず、どちらかと言えば、若気の至りからかかわったというふうに伝わってくる。彼女がこの事件で逮捕されたのは、まだ二十歳という若さでのことだったのである。

朝鮮への自分たち日本の民権派の介入について、福田は次のように合理化している。「弁髪奴を国外に放逐し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曟日に政府は卑屈無気力にして、彼の辮髪奴のために辱めを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大に外交政策に関する而巳ならず、一は以て内政府を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり」

この文章からは、朝鮮独立の正義よりも自分たち日本の運動にとっての価値を優先するような気構えが伝わってくる。それはまた日本政府の朝鮮政策ともかかわりがあるのであって、さればこそ彼ら民権派は、官憲によって危険分子として弾圧されながらも、国を憂える国士として尊敬される理由ともなったわけである。この運動に福田は、運動資金の調達係および爆発物の運搬係としてかかわったのであった。

福田はこの事件で検挙され、二十歳の年から三年間監獄にぶち込まれた。そのうち当初の二年間は未決囚としてである。監獄での待遇は、思っていたほど悪くはなかった。政治犯と言うので、獄吏からも一目置かれ、他の女囚の教育とか、模範的な囚人としての役割を期待されたりもした。しかし全体として監獄の運営は前近代的で、囚人をますます腐敗堕落させるようなところがあった。それは極卒が無学無識で囚人を取り扱う方法をわきまえていないことに原因があるというので、福田は、「監獄の改良を計らんとせば、相当の給料を支払ひて、品性高き人物をば、女監取締となすに勉むべし」と提案している。

明治憲法の制定を記念して恩赦が行われ、福田ら自由民権の囚人たちは解放されて娑婆に出て来たが、そんな彼らを熱烈な歓迎が待っていた。いまや彼らは自由民権の闘志であるのみならず、国を憂える国士としても、国民の熱狂的な敬愛を集めるに至ったのである。就中福田はただひとりの女闘士として各地で熱狂的な歓迎を受けた。郷里の岡山でも大歓迎された。だがその高揚も長くは続かず、福田は自分の進路を自分で決めるという課題にすぐ直面する。その課題のなかで最も重かったのか、男との関係であった。

福田は、自分は子供のころから男のようにして育ち、自分には女としての自覚が弱かったと言っている。そんな気持ちが身体に作用したか、初潮は監獄にいる二十二歳のときだった。常識では考えられない遅さである。おそらく女性ホルモンの分泌が並の女性にはるかに及ばなかったせいだと思う。そんな彼女だが、男には持てたようで、多くの男から言い寄られたらしいことがこの本からも伝わってくる。しかし一言で言うと、彼女は男運が悪かった。

最初に婚約を取り交わした小林樟雄とは、彼女の方から愛想をつかして絶交するし、二度目の男である大井健太郎にはさんざん弄ばれたあげくに捨てられてしまう。三度目の夫福田友作は誠実な人柄だったが生活力がなく、さんざん苦労したあげくに三十六歳の若さで死んでしまう。同い年だった福田は三十六歳の若さで四人の子どもを持った未亡人となってしまうわけである。

小林と大井に対する福田の批判には厳しいものがある。小林については次のように書いている。「朝鮮の事件始まりて、長崎に至る途すがら、妾と夫婦の契約をなしたる葉石(小林のこと)は、いふ迄もなく、妻子眷属を国許に遺し置きたる人々さへ、様々の口実を設けては賤妓を弄ぶを恥とせず、終には磯山の如き、破廉恥の所為を敢てするに至りしを思ひ、斯る私欲の満ちたる人にして、如何で大事を成し得んと大に反省するところあり、扨こそ長崎に於て永別の書をば葉石に贈りしなれ」

大井については次のように書いている。「重井(大井のこと)は最初妾に誓ひ、将た両親に誓ひしことも忘れし如く、妾を遇すること彼の口にするだも忌はしき外妾同様の姿なるは何事ぞや」。気位の高い福田のこと、大井の仕打ちは怒り心頭であったようだ。妻がある身でありながら自分を騙して内縁関係を求め、子どもができた後はほかの女とくっついて子どもに対する責任を取ろうともしない。そんな男では怒りもまた深くならざるをえまい。

こんな情けない男たちに囲まれたせいで、福田は自由民権の闘士と呼ばれる連中に対して強い嫌悪感を抱くようになる。福田は言う、「かく吾朝鮮事件に関せし有志者は、出獄後郷里の勇士者より数年の辛苦を徳とせられ、大抵代議士に選抜せられて、一時に得意の世となりたるなり。復た当年の苦難を顧みる者なく、そが細君すらも悉く虚名虚位に恋々して、昔年唱へたりし主義も本領も失ひ果し、一念その身の栄耀に汲々として借金賄賂是れ本職たるの有様となりければ、彼の時代の志士程、世に堕落したる者はなしなど世の人にも謡はるるなり」

この福田の言葉を読むと、代議士政治家の堕落は今に始まったことではないとつくづく思わされる。



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