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幕末期の町奉行:戊辰物語


「戊辰物語」には、幕末・維新期の町奉行について、けっこう興味深い記述がある。江戸の町方の治安は、南北の町奉行所が所管していたが、その規模が非常に小さなことに驚かされる。南北の違いは、管轄地域の違いではなく、江戸市中全体の治安を南北交替で担当した。今日の警視庁にあたるものだが、その組織たるや、南北それぞれ二十五人の与力と、百三十人の同心がいるのみ。正式の役人はこれだけで、その下にいる目明し、岡っ引きなどは、みな同心の私的使用人で公儀の役人ではない。それ故、公儀から報酬が出るわけではない。それらはたいてい料理屋の主人だとか博徒の親分で、二足のわらじを履いていたわけだが、公儀から手当てが出ないことを口実にして、公然と悪事を働いた。

与力は二百石、同心は三十俵二人扶持、武士としては低い階級だが、なにしろ少ない人数で江戸の治安を所管しているとあって、えらい権力を持っていた。その権力は、「与力、相撲に火消しの頭」という具合に江戸三男の筆頭に唄われたほどだった。彼らは、一年の半分奉公するだけでよかった。その半分も、一日中というわけではなく、午前十時に出勤して、午後四時には退勤した。出勤時のスタイルは、与力が継上下、同心が羽織袴であったが、幕末の頃は与力も羽織袴になっていたという。彼らは、八丁堀界隈に、組屋敷を作って住んでいた。それゆえ町の者たちは彼らを八丁堀の旦那と呼んだ。

八丁堀といえば、町人の住んでいるところの真ん中だ。そこに武士が住んでいるところから、八丁堀の旦那たちは、普通の武士とは一味違った雰囲気を漂わせていた。なにしろ絶対的な権力を背景にして有り余るほどの金をもっていたので、随分と贅沢をした。「着物の仕立、着こなしから好み、髪の結い方から大小のこしらえ肩衣の肩幅、紋の大きさ、印籠の渋み、ちょっと見てすぐに八丁堀のものだと知れた。八丁堀の者には実はどこが違っているかわからなかったが、何しろちょっと女中が使いに出ても世間では『ははあ町方の人だ』とすぐわかった」ほどだという。

与力の仕事には色々とあった。調べ役というのが一番楽でしかも収入が多いというので、みなこれを目指した。ついで、市中取締り、吟味方などがあり、末輩はだいたい番方というのに回される。これはその日の新事件を受け付けたり、奉行が出るような白洲に陪席したり、死罪、磔、獄門など、その他いろいろな事件の検視に出かけるとか、宿直警備をやらされた。

当時の警察事例では、目上のものを殺すと獄門、磔に処せされていたから、その数は結構多かったと思われる。明治になっても五・六年までは、打ち首は無論、磔もあれば、獄門、晒し首もあった。「維新前後」には、某翁が初めて検死に行った時に、十二・三人一緒に磔されているのを見てびっくりしたことが紹介されている。磔でまだ生きている人間へ、獄卒のはしくれが下から柄の長い槍でつつき絶命させるのだそうである。たいていの場合は、柱へ架ける時に、ぐっと首縄を締めて絶命させるのであるが、中には絶命しないで磔台に晒されているものがいる。そういうのを絶命させるために、槍でつつくわけである。それにはだいたい形があって、柄の長い槍二本で、まずチャリンと穂先をあわせてそれを左右に引くと、今度は「アリャリャン、リャン」と声をかけて、胴から肩のほうへずぶりと刺しぬける。すると槍の柄を伝って真っ赤な血がさあっと流れてくる算段だ。

打ち首はいたって簡単に行われた。小塚原や鈴ヶ森といった刑場に引き出すことはなく、死刑の言い渡し書を与力が牢屋まで持参して、そこで囚人を引き出して刑の言い渡しを行い、すぐその場で首を切ってしまったものである。牢内には土談場といって、土砂を盛った首切り場ができていた。土談場に臨むというのは、そこから来ているわけである。

戊辰の年の正月は、鳥羽・伏見の戦いで始まったが、江戸では将軍不在ということもあって、静かなものだったという。与力たちも例年と変わらず、奉行に年始参りをした。夜が白む頃に八丁堀を出るのだが、そのいでたちは、麻裃で立派な大小をさし、供回りは若党一人大小をさし、背割羽織、たっつけ袴、紺足袋、わらじをはかせ、下男四人(御用箱持ち、草履とり、槍持ち、鋏箱持ち)いずれもあさぎの股引萌黄のふと帯を締め、素足にわらじをはいた。帰って来ると屋敷の玄関で下男が「御帰り!」と声をかける。ちょっとした大名気分だ。

与力のみならず武家に共通した三ケ日中の忌み言葉があったそうだ。ねずみ、なべ、箒。どういうわけで忌まれたか根拠がよくわからぬが、どうしてもこれらの言葉を使わざるを得ない場合には、ねずみをおふく、なべをおくろ、箒をおなぜと言った。

南北の町奉行所を官軍に引き渡して、市政裁判所と名称の変わったのは、戊辰の年の五月二十二日。もっとも、実際に職を解かれたのは、南北の奉行だけで、与力以下はそのまま職務にとどまることを要請された。新政府としては、江戸の治安に実績があった南北両奉行所の与力以下の働きを引き続き利用したいのと、与力を解任して彰義隊にでも入られたら面倒だと思ったというのが、その理由のようだ。

奉行所を官軍に引き渡すについて、奉行所がかねて保存していた莫大な金、いわば埋蔵金のようなものだが、その処置をどうするかで与力らが鳩首した。その結果、奉行所が直接保存していた金については、与力の間で分配することとした。そのほか各町々の会所に非常金の積み立てがだいぶあったが、これは着服しないで、官軍側に引き継ぐことにした。どういうわけでそうしたか、詳しいことはわからない。



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