日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




戊辰物語を読む


「戊辰物語」は、戊辰戦争の年から六十年後の戊辰の年に、東京日日新聞が戊辰戦争をはじめとした明治維新前後の出来事について、古老の回想を集めて新聞紙上に載せた記事を中核にし、それに、「五十年前」と題する、やはり古老の回想の聞き書きと、「維新前後」と題する、これは記者による記事らしいものが付属している。映画評論家の佐藤忠雄が岩波文庫版に寄せた解説によれば、この聞き書きには子母澤寛がかかわっていたらしい。子母澤は、明治維新を敗者の視点からとらえ、そうした視点から新撰組の行状を調べ、それを「新撰組始末記」という形で著したりした。従来とかく勝者である薩長藩閥の視点から見られていた明治維新を、別の視点から見たものとして、その後の明治維新観に一定の影響を及ぼしたものだ。そんな背景があるせいだろう、「戊辰物語」の本体には、新撰組への言及が多く見られるし、「明治維新前後」などは、ほとんどが新撰組についての記述である。

新撰組といっても、近藤勇にかかわることがほとんどだ。近藤については、毀誉褒貶いろいろな見方があるが、この戊辰物語においては、回想している当の古老たちは、そんなに否定的には見ていない。といって、高く評価しているわけでもない。高く評価しているのは、「戊辰物語」本体とは別の「維新前後」のほうで、ここでは近藤について次のように書いている。

「後に勇、武州板橋に刑死したが、その首をわざわざ京都へ送って四条河原に晒したのは当時勝てば官軍の心奢りの仕業である。勇は、別に自儘で暴力を振るったのではない。一の幕府役人として京都の安寧秩序を維持する上に当然の勤めを果したまでで、甲州勝沼の一戦あるとはいえ、その罪、斬首にはあたらないものである」

近藤は、新撰組隊長として、池田屋襲撃を始めさまざまな事件にかかわったが、命取りになったのは、京都油小路路上での仲間うちの同志打ちであった。仲間のなかで、伊東甲子太郎ら勤王思想に傾く分派を襲撃して殺したのだったが、その時の伊東派の生き残りが、勇にとって災いした。そのうちの一人によって、馬に乗っているところを、鉄砲で背後から撃たれて右肩を負傷し、それがもとで剣を振るえなくなった。また、流山で官軍に囲まれた際、偽名を使ってとぼけようとしたところを、これも伊東派の生き残りによって素性を暴露され、その場で首を切られてしまった。切られた首は、京都へ運ばれて四条河原に晒されたのであった。

右肩が使えなくなった近藤は、自分自身は鳥羽伏見の戦いで活躍できなかった。新撰組は壊滅、隊士百五十名の殆どが討死にし、養子の周平も死んだ。怪我をして江戸に戻った近藤に、佐倉藩御留守居役の依田学海が会っている。学海が近藤に、「伏見の戦争はどうでしたか」と聞くと、近藤は話をするのも苦しそうな様子で、かたわらの青白い小さな人物を紹介して、「これは土方歳三です。これに聞いて下さい」と言ったそうだ。その折の様子については、学海の日記「学海日碌」慶応四年一月十六日の条に記されている。曰く、「此日、新選組近藤勇・土方歳三にあふ。近藤、去月十八日、伏見にて肩に痛手を負へり。歳三は其手の兵を将て伏見・淀・橋本の戦にのぞみ、強の士過半を失ふ。しかれども己は死を脱して之に至るといふ。両人とも閣老に謁して再征の議を謀るといふ。極て壮士なり。敬すべく重ずべし」

学海はその後、京都で勇の首を見ている。その折の日記の記事は次のとおりである。「慶応四年閏四月十日。新撰組近藤、大和と改名して官軍を拒みし罪によりて擒殺せられ、首を三条(?)の河原にかけらる。余これをすぎ見て慨嘆にたへず」

「戊辰物語」が、新撰組とならんで大きく取り上げているのは彰義隊だ。彰義隊といえば、幕府側の官軍に対する徹底抗戦として、壮絶なイメージが流布しているが、実体はどうも、烏合の衆に近かったと、ここでは見られている。彰義隊はもともと、勝海舟の肝煎りで、江戸市中の見回りにあたっていた。取締役は天野八郎という無頼漢で、もともと百姓のあがりだったが、どういうわけか、人を使う能力があって、彰義隊の隊長にかつぎあげられたらしい。その天野のもとに、旗本・御家人はじめ多くの武士が集まって、それが暴走するような形で上野の戦争が始まったというのが真相らしい。そんなわけであるから、彰義隊は烏合の衆と言ってよく、数千人も集めたわりには、官軍に一方的に叩きのめされる有様だった。

もっとも彰義隊は、江戸の町人にはひどく好かれたようだ。「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」という言葉が流行したくらいだという。しかし戦いには弱かったわけだ。その最大の理由は、官軍の鉄砲の威力にあった。刀を振り回す彰義隊の士たちは、官軍が発する鉄砲玉の餌食になったわけだ。そんなわけで、官軍の死者には刀でやられて血だらけなのが多いが、彰義隊の死体はわりに綺麗だったという。なかにずたずたにやられたのがいるが、それは死んだあとで切られたので、血が出ていない。

彰義隊の隊長天野は、命からがら上野を逃げ延びて本所の町人宅にかくれていたところを、発見されて牢屋にぶち込まれ、そこで牢死した。



HOME 日本史覚書







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである