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岡義武「山県有朋」


明治の元勲のなかで山県有朋ほど人気のない者はいない。それゆえ彼の生き方や業績を肯定的に評価する研究もあまりない。そんななかで岡義武が1958年に著した「山県有朋」(岩波新書)は、山県という政治家をなるべく曇りのない眼で見つめ、その評価すべきところはきちんと評価しようという意思に貫かれている。山県有朋研究にとっては、古典的な意義をもつ本だ。

山県はなぜかくも人気がないのか。その人気のなさは、彼が大正十一年に八十五歳で死んだときに、時の政府が国葬を以て遇したのに対して、その葬儀に参列するものが極少数にとどまったことに顕れている。一般国民はおろか、政治家や役人の参列も微々たるものだった。それを当時の新聞紙は、「大隈侯は国民葬。きのふは<民>抜きの<国葬>で幄舎の中はガランドウの寂しさ」と皮肉ったほどだった。

山県は長州藩の微賎な下級武士の家に生まれながら、明治維新の荒波をくぐり、権力の頂点に上り詰めたばかりか、その権力を生涯にわたって誇示した。そういう点では、伊藤博文と並ぶ立志伝中の人物であり、今太閤と呼ばれてしかるべきだった。その伊藤のほうも英雄のイメージとは程遠いが、千円札のモデルになれたりして、日本国民からある程度の敬愛を集めてもいる。ところが山県は、敬愛どころか軽蔑の対象である。なぞそうなのか。

秀吉の場合には自分の実力で天下をつかんだ、というふうに思われている。ところが山県は、自分の実力でチャンスをつかんだというよりも、棚から牡丹餅式に、運が働いて天井まで上り詰めた。上り詰めた後は、それなりに謙虚さを示せばよいものを、自分の権力におごってやりたい放題のことをした。もともと貧乏人の生れだったにかかわらず、巨万の富を築きえたのも、権力を私物化したからである、そんなふうに思われている。伊藤が金に執着を見せず、せいぜい女狂いに走ったのに比べれば、山県は潔くないと思われたわけである。それが彼の人気のなさの根本的な理由だろう。

山県の棚から牡丹餅式の権力掌握をもたらした明治維新史への登場について、岡は次のように簡単に言及している。「山県は後年、『明治の元勲』と呼ばれるようになったが、しかし、明治維新にあたって彼の演じた役割はさほど大きいということはできない。彼は維新を生み出す巨大な歴史の流れに動く代表的な、主役的なひとびとには属せず、この過程において登場してくる多くの脇役の一人にとどまったといってよいだろう」

その山県がなぜ、権力の頂点に立てたのか。一つには西郷や木戸をはじめ、維新の主役たちが早々と歴史の舞台から消えて、山形のような二流の人物に光があたったこともあるが、基本的な要因は、山県が維新の権力の中核たる政府軍(陸軍)の中枢にいることができたこと、後には明治の官僚組織を掌握し、その頂点に立ったこと、要するに権力の裏舞台に始終居続けたことにあった、と岡は見ている。その点では、国家権力の裏舞台たる諜報機関に長くいて、そこから権力の頂点に躍り出た現代ロシアのプーチンに似ているところがある。

この本の中でより面白い部分は、山県が権力を掌握するまでの過程を描いた部分よりも、権力を掌握した山県がいかにしてそれを維持しようとしたかを描いた部分にある。山形の権力への執着には並々ならぬ意欲が感じられるのだが、彼はその権力を天下公共のものとしてよりも、自分がよって立つ藩閥勢力の利権としてとらえていた、というのが岡の見立てである。山県の政党敵視には病的なものが感じられるが、彼が政党を敵視するのは、政策上の理由からというよりも、政党によって権力が掌握されると、自分のよって立つ藩閥の利害が徹底的に損なわれると思ったからだ。そんなわけで山県の権力への執着は、閥族というクッションをおいてのこととはいえ、権力を私物化しようとする意思に支えられていたということになる。

山県の権力操縦の基本手法は、長州閥を中心にした巨大な派閥を組織し、自分が総理大臣として権力の頂点に立った場合は無論、外の内閣にも自分の派閥から多くの人材を送り込み、それらを通じて自分の意思を貫徹したことだ。後には山県の派閥は貴族院や枢密院をも抑えることとなり、山県はそれらを通じて影響力を誇示し続けることができた。彼が八十五歳で死ぬまで、日本の政治に影響力を持ち続けることができたのは、この派閥のたまものである。そういう手法が、後の日本の政治を彩る特徴の一つとなったわけである。そうした山県の政治手法は、少なくとも戦後の岸・佐藤兄弟を経て今の安倍晋三にいたるまでの長州系政治家の特徴的な政治スタイルとなっている。

こんなふうに言うと、山形には権力欲だけあって政治上の識見は持ち合わせていなかったかのように聞こえるが、それは事実ではない。山県といえども、彼なりの政治的信念は持ち合わせていたのである。それは一言で言えば勤皇思想であった。近代日本は天皇を中心として国民が一体となり、内には順風美俗が行われ、外に向かっては世界に模範を垂れるような国家を目指すというものだ。この思想を具現したのが教育勅語だったわけだが、その制定には山県が大きくかかわったのである。だから山県は近代日本の精神的なバックボーン造りに大いに貢献したといってよい。

岡は折に触れて山県の詠んだ和歌を紹介している。それらは決して秀作とはいえないが、しかしある程度の教養がなければ詠めるものではない。山県にはそのある程度の教養があった、と岡は山県を褒めてもいるわけである。そんな山県だからこそ、国民に向かって教育勅語の精神を吹き込むことができたのであろう。

山県の外交方針については、吉田松陰の弟子を自認する山県らしく、積極膨張主義の色彩が強く感じられる。日清戦争までの山県は、そうした積極主義を主導していたのだが、日露戦争には慎重だった。そこには日本の国力についての山県なりの冷静な見方があったと岡は見ている。第一次世界大戦及び大戦後に成立したソ連への対応でも、日本の国力を十分に踏まえて、冒険に走るべきではないとの冷静な見方をしている。その辺は、明治維新という嵐を身をもって潜り抜けてきた体験がものをいっているのではないかというわけである。

晩年の山県は、あれほど忌み嫌っていた政党をある程度受け入れるようになった。それには政友会の指導者であった原敬への人間的な信頼が働いていたと岡は思っているようだ。服部之総は、山県と原との関係を、原が山県を手玉にとったと見ていたが、岡は山県のほうから原に歩みよったと見ているわけである。

山県は原の政友会を評価する一方、加藤高明が率いる憲政会のほうは最後まで認めようとしなかった。それは、原が日本の支配層の利益に対して十分な配慮をしているのに対して、加藤は立憲政治の形式にこだわるあまり、日本の行末を危うくするのではないかと恐れていたからだ、と見ているようである。



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