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松沢裕作「自由民権運動」


「近代日本において『デモクラシー』の時代は、かならず戦争の後の時期にあらわれる」というテーゼが、この本の中で著者の松沢が、自由民権運動を日本史の中で位置づけるべき視点とするものだ。この視点によれば、「日露戦争で多くの国民が戦場で命を賭し、あるいは重税に耐えたことが、日露戦後、人々の政治参加への要求を引き起こした。それが『大正デモクラシー』の時代を出現させたのである。十五年戦争後のいわゆる『戦後デモクラシー』も同じ構図である。著者は、戊辰戦争も同様の効果をもったと考える。自由民権運動とは「戊辰戦後デモクラシー」なのである。

たしかに、大規模な戦争が、その後で人民の広範な政治参加を促すということは、近代日本にかぎらず、世界的な規模でも見られるようだ。大規模な戦争は、国民全体を戦争にむかって組織するので、国民は多大な犠牲を強いられる。そのことが一方では、国民からの政治参加の要求を高めるとともに、権力の側からは国民懐柔のためのさまざまな施策を実施する動機ともなる。欧米諸国では、第二次大戦後に民主主義の徹底を初め政治参加の拡大を求める民衆の運動が盛んになった一方、政府のほうでは社会民主主義的な政策の実施を迫られたという面があった。

そこで、「戊辰戦後デモクラシー」が、どのような人々を担い手として、どのようなことを目的にして盛り上がって行ったか、それを跡付けることが、この本の主なテーマとなるわけだ。ごく単純化して言うと、戊辰戦争で勝組に乗った人々が、自分たちの功績に相応しい待遇を求めて政府にせまるとともに、自分たち自身が戦後の国づくりの青写真を描こうとした、ということになる。このとらえ方によれば、「戊辰戦後デモクラシー」としての自由民権運動の担い手は、戦争の勝組になったにかかわらず、それに相応しい処遇を受けられず、権力を握った藩閥政権に意趣を抱いていた人々ということになり、その目的は、自分たち自身で新しい国の形を作ろうとすることにあった、ということになる。この見方によれば、板垣退助などは、自由民権の理念に駆られたというよりは、戊辰戦争の英雄として相応しい処遇を政府に認めさせることが主な目的だったということになる。かなり現世的な見方がおもてに出てくるわけだ。

こうした見方は、ある意味では実も蓋もない見方といえよう。維新の藩閥政府に対抗して、権力の分け前に与ろうとする強い動機が板垣ら主に西南地方の士族層の間で高まっていたことは事実である。だがその事実に立脚して、自由民権運動を政治権力をめぐる抗争だったと割り切ってしまうと、自由民権運動そのものがかなりやせ細って見えるようになる。どんな政治運動も、その影には現実的な打算を伴うものだが、それだけでは運動が正統化されることはないし、したがって国民的な広がりももたないだろう。ところが、自由民権運動とは全国的にかなりな広がりをみせたものであったわけだし、その運動が「自由民権」という高邁な政治理念に支えられていたというのも事実だ。そういうことを踏まえれば、松沢のように、自由民権を権力闘争に矮小化するのは、一面的な見方というべきだろう。

自由民権運動を単なる権力闘争ととらえることで、秩父事件など運動最盛期に起ったさまざまな事件は、いづれも自由党の運動方針に盲従した連中が起こした偶発的な騒擾ということにされてしまう。たしかに、こうした事件の一部には、政治理念が読み取れず、単に騒擾目的だとしか思えないものも含まれているが、秩父事件のように数千の人々が立ち上がった運動を、アジテーターに先導された人々の盲目的な騒擾だと決め付けるのはあまりフェアだとはいえまい。

こうしたアンフェアな見方は、松沢が権力闘争の視点からしか自由民権運動を見ないことから生じるのだと思う。自由民権運動を駆り立てた大きな要因として地租改正反対というものがあったが、松沢はこれについてはほとんど触れていない。地租改正というのは、今日の日本人には実感がわかないが、もともと封建的な税制を引き継いで更に重税化した地租を、一層重くしようというもので、農民たちにとっては死活問題だったわけだ。日本の農民層は明治の前半期に階層分化が進み、多くの自営農民が没落していったという歴史的事実があるが、その原因となったのが重い地租だったわけである。だから地租改正反対を叫んで立ち上がった農民層は、自分たちの命をかけていた側面もあるわけだ。それを松沢は全く無視して、自由民権運動は基本的には、戊辰戦争で勝組に乗りながら、ということは新しい権力にあずかる資格を持っていながら、藩閥政府によって権力から疎外された人々が、自分に相応しい待遇を求めて対抗した運動だと、かなり一面的にとらえるわけである。

とはいえ、自由民権運動に権力闘争としての側面があるのも事実だ。板垣などは、自由民権の理念を追求した清廉潔白な政治家というよりは、土佐のあぶれ士族に担がれたアナクロニストとしての側面のほうが強い。土佐にかぎらず、旧西南諸藩には、出来上がりつつある明治政府に対して、さまざまな思惑をもった人々がいて、それらの人々が様々な政治的動きを見せたということもある。筆者などは、そうした動きのなかでも、日本の右翼運動の源流に注目している。玄洋社が北九州から起ったように、日本の右翼運動は旧西南諸藩から起ったといえるのではないか。彼らは、勝組の主流派が政治の表舞台で政府権力を占有するのを横目で見ながら、裏舞台で、権力の分け前を求めて右翼運動を拡大していったのではないか。そんなふうに筆者は考えている。

ともあれ松沢の史観はかなり一面的だといわざるを得ない。明治政政府公認の「自由民権運動=不穏分子の騒擾」史観と変るところはない。



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