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板垣退助と大隈重信:服部之総「明治の政治家たち」


板垣退助と大隈重信は、日本の政党史の冒頭を飾る二大巨頭である。板垣は自由党の創始者として、後の政友会につながる政党の伝統を作ることに貢献し、大隈は改進党の創始者として、これは後の憲政党の流れにつながった。この二つの党は、いずれも日本のブルジョワ層の利害を代表していたといえるが、どういうわけか仲が悪く、いつも喧嘩ばかりしていた。だから板垣と大隈が手を結んで所謂隈板内閣を作ったことは、歴史の皮肉の一つに数えられる。しかしもともと天敵同士だったものが何時までも一緒にもつわけもなく、この隈板内閣はわずか数ヶ月の短命で終わったのだった。

板垣が歴史の表舞台に躍り出たのは、戊辰戦争の英雄としてであった。彼は官軍の司令官として会津攻撃の先頭に立ったほか、東北各地の賊軍を平定した。その功績によって土佐藩大参事に抜擢され、また参議の列に加わることともなった。だから、明治維新の最大の立役者の一人として、明治政府の権力を担うべき人物だったわけだが、どういうわけか、自由民権運動に足を突っ込んで反政府運動の先導者となり、ひいては自由党の創始者ともなっていったのである。

政治家としての板垣には二面的なところがあると服部は見ている。土佐派の領袖としての側面と自由民権運動の指導者としての側面である。この二つの面は完全に一致していそうで、実はそうではない。土佐派が自由民権運動を追及した動機は、自由民権の理念というよりは、明治政府における土佐派の藩閥利権を確保するための方便としての意味合いを帯びており、自由民権よりも土佐派の閥益を優先するようなところがあった。だから、板垣が土佐派に担がれているときは理念から逸脱する傾向が強まった、と服部は見ている。「板垣の糸引きが一握りの土佐派・・・にゆだねられるかぎり、板垣の進退はすすけてミゼラブルなものになる。星が強力なしん糸を引き始めるや、がぜん活気を帯びてくる」というわけである。

大隈と板垣が妥協して隈板内閣を作ったのは藩閥つまり薩長閥への対抗心からということになっているが、実際に彼らの内閣のお膳立てをしたのは、薩長閥で占められている元老たちの意向によってだった。彼らが自分の手で勝ち取ったわけでない。そう服部は見る。だから元老たちの意向が別の方へ向くと、あっさりとお役御免になったというのである。

板垣も大隈も、原とはあまり仲良くはない。原は大隈のことを生涯嫌悪した。どういうわけでそんなに嫌ったか。単に政敵という理由では、その異常な嫌い方の説明にはならない。原には大隈の節操のなさが鼻についたようなのだが、その節操のなさとは、自分自身の政治的信念とまったく違うものを原が大隈のうちに見ていたということであるらしい。大隈は周知のように、生涯一貫して立憲主義的な政治をめざした。自由民権運動華やかな頃に作られた多くの私擬憲法案のうちで、大隈のものが最も急進的であった。それは原の眼には、限度を逸脱しているように見えたのだろう。原は基本的には、大地主や大ブルジョワジーの利害を代表していた。その利害を明治政府権力の枠内でどのように貫徹するかが原の戦略となった。それに対して大隈の方は、明治政府と対立して、違う原理で権力を構成しようとしていた。そういう姿勢が原の眼には、いかがわしく映ったのだろうと思われる。

隈板内閣がつぶれた後、板垣はすっかり精彩を失う。ほとんど政治的な存在感を示さなくなった。明治三十三年に伊藤博文を担いで立憲政友会が発足すると、政友会の前身とも言うべき自由党の創始者である板垣は、歴史の舞台から追い立てられるようにして、政界から引退した。一方大隈のほうは、ブルジョワ政党である憲政党を引き続き指導し、薩長藩閥政治に対抗する姿勢を示し続けた。しかして大正の初年には第二次大隈内閣を作った。

板垣が戊辰戦争の英雄として歴史の舞台に華々しく登場したのに対して、大隈はたまたま佐賀藩にいたという理由で、藩閥の力学から歴史の舞台に押し出されたといった具合だ。薩長土に比べて、佐賀藩は明治維新で際立った動きをしていない。どちらかというと、部外者として徳川と薩長の動きを静観していた。ところが薩長の優位が明らかになると、俄然薩長側に味方して、戊辰戦争で十分な働きを見せた。それを薩長閥に評価されて、明治維新政府の一端に食い込むことが出来た。つまり藩全体として、日和見主義的でいい加減なところがあるのだが、そういう藩にたまたまいたおかげで、大隈も明治政府権力の一端に食い込むことが出来た、というわけである。それに比べれば土佐閥のほうは、明治維新で存分の働きをみせたにかかわらず、明治政府権力から締め出されるような羽目になった。だから彼らが自由民権を呼号して反政府つまり反薩長に立ち上がるのも無理はないのである。

こう見てくると、明治の政治も存外に散文的に出来ていたという印象を強くする。それは明治維新が革命ではなく、権力の移行に過ぎなかったという、ごく散文的な事柄に由来するのだろう。少なくとも服部はそう見ているわけだ。



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