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伊藤博文と山縣有朋:服部之総「明治の政治家たち」


伊藤博文と山縣有朋は、長州閥の巨魁として明治の政治を牽引した。服部之総は明治維新を、徳川封建体制から薩長藩閥勢力への権力の移行というふうに捉えているが、その権力に形を与え、それを強固なものに仕上げていくについて、伊藤と山縣が中心的な役割を果たしたと見ている。しかしてこの二人には、彼らの性格を反映したかのような、明確な役割分担が見られる。伊藤は新たな権力に形を与え、山縣は新たな形を与えられた権力を操縦して、藩閥政治を貫いた、というわけである。

服部は、水呑百姓から国家の元勲になりあがった伊藤を太閤秀吉に比較し、寡人好色のところは太閤に似ているが、勇気の欠如のために国民的英雄にはなれなかったと評価している。だが伊藤は日本のビスマルクとして、絶対主義国家の礎となる「基本的な工事」を成し遂げたといって、以下の業績をあげる。
 明治十七年 華族令
 明治十八年 内閣官制
 明治十九年 帝国大学令
 明治二十年 保安条例
 明治廿一年 枢密院制度
 明治廿二年 憲法発布
伊藤は、これらの制度を作ったばかりでなく、自らその主催者となったり、恩恵を受けたりした。それらのうち最も重要なのは、内閣官制によって自ら近代日本最初の総理大臣になったこと、及び明治憲法を発布したことである。

明治憲法をプロシャ憲法にのっとって作るという根本方針は、大久保利光によって決められていたが、それを実際にまとめたのは伊藤である。伊藤はだから、明治国家の骨格を作った実際の指導者の栄誉に服してよい。それ以来日本という国は、伊藤の作った制度にのっとって動いていったわけである。その制度とは、プロシャ流の絶対主義国家と言ってよかったが、プロシャの場合には、君主そのものが絶対権力を行使したのに対して、伊藤が思い描いた日本の絶対主義は、天皇の威を借りて薩長藩閥が権力を行使する、いわゆる有司専制が実態だったという違いはある。

この有司専制に徹底的にこだわったのが山縣だと服部はみている。彼は藩閥の代表という自覚が強く、伊藤が作った絶対主義権力を、藩閥の利益のために最大限利用した。山縣には、陸軍の元勲とか内務省の首領といった側面もあり、それはそれで権力の権化のようなところもあるのだが、基本的には伊藤の整備した絶対主義権力に寄生した存在だったというのが服部の見立てのようである。

伊藤と山縣の相違がもっとも明瞭に現れるのは政党政治への対応である。伊藤は政友会の初代総裁となって、日本で最初の本格的な政党政治の実践者となった。伊藤流の現実感覚がそういうプラグマティックな選択をさせたと服部は見ている。一方、山縣の場合には、政党政治に徹底的に敵対した。内閣の首班は議会における多数党ではなく、天皇の専断によって決められねばならぬと主張した。制度的にもそれは、憲法によってオーソライズされているのだから、なにも政党に気兼ねする必要はないというのが山縣の理屈だった。要するに天皇の権威を利用して藩閥の利益を固守しようというのが山縣の大方針だったわけで、その点では、議会の多数派に権力を行使させてよいとする伊藤と相違していたのである。

伊藤も山縣も長州閥のチャンピオンだったわけで、藩閥の利害を守るという点では異存はなかったはずなのだが、政党をめぐってこのような相違が生じるのは、彼らの性格の相違にもよる、というのが服部の見立てのようである。山縣には、なにがなんでも自分の手にした権力、それは藩閥権力というかたちをとったわけだが、それを絶対固守しようとするところがあった。折角自分の掌中にしているものを、おいそれと他人に渡す必要はないという考えである。それに対して伊藤のほうは、必ずしも自分の今手にしているものに拘らなくとも、別のかたちで自分の意思が貫徹できればよいではないかという柔軟性のようなものがあった。政党政治といっても、なにも大日本帝国の屋台骨がそれで脅かされるというものでもない。うまく使いこなせば、スムースな政治ができるし、日本の国力の強化にもつながる。山縣のようにいつまでも古い藩閥意識に捉われていては、時代の流れに取り残される、そんなふうに伊藤は考えていたと服部は推測するのである。

伊藤と山縣の性格の相違は別のところにも現れている。山形が金に汚かったとはよく言われる。足軽身分から権力の頂点に上りつめたところは伊藤と良く似ているが、伊藤が金には比較的淡白だったのに対して、山縣は金にガツガツしていた。かれが巨万の富を築いたのは、金への執着があったからである。そのやりかたも尋常ではない。国家権力を最大限利用して私腹を肥やしたフシがある。その点では、十九世紀後半におけるアメリカの政治家と異ならない。その時代のアメリカの政治家も、官職を私腹を肥やす手段としてわきまえていたのである。

伊藤は金には淡白だったが、女にはだらしがなかった。生涯に手を出した女の数は知れずというし、妾も多くいたようである。日露戦争の勝利に日本中が沸いている中で、たしか内村鑑三だったと思うが、この勝ち戦のおかげで伊藤は爵位を上げ妾の数を増やすことが出来たと皮肉った。それほど伊藤の女癖の悪さは有名だったらしい。

原敬とのかかわりで言えば、伊藤は政友会の総裁として原とは仲間内の関係にあったのに対して、山縣の方は政党敵視の立場からして原とは対立の関係にあった。その対立で始終リードをしたのは原のほうだったとして、服部は原の権謀家としての手腕に敬意を表している。



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