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原敬:服部之総「明治の政治家たち」


服部之総の「明治の政治家たち」は、原敬を中軸に据えて、何らかの程度で彼につながりのある政治家たちを取り上げている。そのメンバーは、陸奥宗光、星亨、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、山縣有朋、桂太郎、西園寺公望といった面々である。陸奥は原の庇護者として原を政治家として鍛えた人間であり、星もやはり陸奥の庇護を受け、原とは兄弟弟子の関係にあった。また、原が活躍の舞台とした政友会を実質的に立ち上げた人物である。伊藤は、長州閥のチャンピオンかつ明治の元勲というイメージが強いが、初代の政友会総裁として政党内閣をつくった人物だ。板垣はその政友会の先祖というべき自由党の党首であったし、大隈はその板垣と対立しながら、政党政治の成熟に一定の役割を果たした。山縣は長州閥の首領としての意識が強く、一貫して政党政治に敵対した。その点では原の最大の政敵であった。桂と西園寺は、政治家としてはやや小粒だが、原の目論んだ政友会と閥族による政権のたらいまわしを担った役者である。

要するに服部は、明治の政治というものは、原を中心にして回っていたと考えているわけである。板垣のような民権論者、星のような権謀術数家、伊藤や山縣のような明治の元勲たちも、おしなべて原の描いた政治の枠組みの中で、原に踊らされていたと言うのである。原といえば、平民宰相とか、政党政治を通じて民主主義の発展に尽くしたとかいうイメージが流布しているが、原の真価はそれのみにとどまらない。彼こそ明治時代における日本の政治を動かしていた最重要人物なのだ、と服部は言うのである。これはかなり大胆な見方と言わねばなるまい。

戦後、政治家としての原の株が上がった背景には、戦後になって定着した政党政治の先駆者としての原のイメージがあるが、それと並んで服部の原びいきが果たした役割も無視できないと思う。服部は日本の政治学会に一定の影響力を持っていたから、彼による原の高い評価は、原のイメージアップに大いに寄与したと考えてよい。もっとも最近では、政党政治家としての原を、あまり高く買いかぶるのは問題だという見方も強まっているようではあるが。

服部が原を、明治を象徴する政治家と見るのは、原が明治という時代の権力を体現していたからだと考えるからである。服部は明治維新をブルジョア革命とは考えていない。封建的な権力から絶対主義権力への、権力の移行と考えている。その移行を担ったのは、現象的には西南諸藩の地方的な勢力(藩閥)であったが、実質的には地主階級だったと考える。その地主階級が明治絶対主義権力を土台で支えていた。明治の政治は基本的にはこの地主階級の利益を貫徹する場であった。そして原敬こそは、この地主の利害を体現したような人物だった、そう服部は整理するのである。

明治の政治家の多くが、下層の身分から成りあがった連中だったのに対して、原は南部藩の家老の息子であった。その点で、封建権力の支配層の出身であった。しかも原の家は、南部藩の特徴である知行地の下付を受けていたこともあって、徳川時代を通じて大地主であったばかりか、明治維新以降も大地主として、大勢の小作農を支配する立場にあった。大地主は、明治維新以降は多少の混乱期を迎えたが、明治政府の地租政策も働いて、明治時代を通じて農民の階層分化が進み、大地主層が広範に形成されていった。原は大地主の一人として、当初から地主の利益を最優先する立場に立っていたし、大地主層が全国的に広範に形成されたあとでは、彼らの利害を代表する政治家となった。それ故、原の政治的な立場は、彼が新聞記者として政治を云々するようになった明治十三年頃から死ぬまで一貫していた、と服部はとらえている。

大地主のチャンピオンという点では、原はドイツのビスマルクに良く似ていた立場にあった、と服部はいう。ビスマルクはプロイセンのユンカーのチャンピオンとして、大地主の立場から絶対王政を支えた。それと同じように原は、大地主のチャンピオンとしての立場から明治の絶対主義権力を支えた、と言うのである。「じつにかれこそ日本が生んだ唯一の純血種郷士の宰相であったのだ。史上この点で、かれに比すべき同類は、純血プロシャユンケル地主の『鉄血宰相』ビスマルク一人だけであろう」

それ故、原を日本の民主主義を発展させた功労者とみるのは間違っている、と服部は言いたいようだ。原は、政党政治を通して日本の民主主義を発展させたとよくいわれるが、彼が民主主義的な感覚を持っていなかったことは、彼の日記を読めばよくわかる。原が常に念頭においていたのは、地主階級の利益を追求する政党である政友会が権力にあずかるということであって、政友会の権力が危ういときには、それを対立政党に渡すのではなく、軍閥に渡したほうがましだと考えた。明治四十年代になって、西園寺の政友会と桂の閥族政治との間で権力のたらいまわし現象がおきたが、それは、憲政党に権力をわたすよりも、軍閥と手を組んで、地主の利害を追及するほうが得策だとする原の政治感覚に裏打ちされていたものだ。憲政党は、勃興しつつある日本の大ブルジョワジーの利害を代表していた。憲政党を主導していたのは大隈だ。原と大隈とは最大のライバルとならざるを得なかったわけである。

原は大地主の代表だといったが、大ブルジョワジーと敵対していたわけではない。実際個人的にも古河とは深い付き合いをしたし、三井や三菱ともつながっていたらしい。だが日本の大ブルジョワジーは、どちらかといえば憲政党を支持していた。原としても政敵である憲政党を支持する連中よりも、やはり自分自身の基盤である大地主の立場に立つのが自然だと考えたのであろう。

この本は、原からはじめ、陸奥以降上述した面々を順次取り上げてゆくのであるが、それぞれが独立した話ではなく、互いにつながりあっている。時代の流れ行くままに、その時代を象徴していた人物として彼らの一人を位置づけ、その人物を中心にして様々な人物たちのぶつかり合いを描いている。だから原は、さまざまな部分で登場し、その人物像を立体的に浮かび上がらせるという形になっている。冒頭の原の部分は、彼が政治家として大物になる以前の、前段的な話にとどまっているわけだ。

星の権謀術数ぶりは有名だが、原はそれ以上に周到な計略家だったというふうに描かれている。頭と気と両方使って、権力ゲームを泳ぎ抜き、最後には勝者の立場に立っている、というのが原のイメージだ。原の腹黒さを前にしたら、山縣のような陰険な策士も色を失う、といった具合だ。もっとも原は、政治家としての名望の頂点で殺されてしまう。原だけでなく、この本が取り上げている人物九人のうち三人が殺されている。原のほか星亨、伊藤博文、そのほか板垣と大隈も殺されかかったことがあるから、明治の政治家というのは、現在の政治家と比べると、殺される確立が高かったわけである。



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