日本語と日本文化


日の丸、君が代、御真影、万歳:国民統合の四点セット


明治22年2月の明治憲法発布にあたり、日本各地で祝賀式が行われたが、その際に儀式を荘厳なものに盛り上げるセレモニーがいくつか導入された。日の丸の掲揚、君が代の斉唱、御真影への拝礼、そして万歳である。(牧原憲夫「民権と憲法」)

これらを仕掛けたのは文部大臣森有礼だった。森はまず、憲法発布の一か月前、赤坂の仮御所から新宮殿に天皇が転居する際、沿道に整列した女子学生に君が代を歌わせた。これを聴いた天皇は馬車の窓を開け、会釈で答えたという。この時に歌われた君が代は、現在ある形ではなく、ウェッベ作曲の小学唱歌だった。

発布の当日2月11日には、各地の式典会場に日の丸が掲揚され、明治天皇の御真影が掲げられて、小学生が君が代を歌うなかで、参加者の拝礼を受けたものもあった。(東京北豊島郡役所など)

また、11日午後、憲法授与式を終えた天皇・皇后が青山練兵場の閲兵式に臨むため馬車で二重橋の正門から姿を現すと、道路の両側に並んだ帝国大学生らが、いっせいに「天皇陛下万歳」と唱えた。師範学校生や小学生がそれに続き、万歳の儀式は瞬く間に市中に波及していった。

牧原氏によれば、民衆が天皇に向かって大声を上げ、手を振るなどということは、それまでありえないことだった。明治天皇の即位式でも、発声を伴う万歳は唱えられなかった。新聞記事には「万歳を唱えた」とあるが、これは天皇の御代が永遠に続くことを祈念するという意味で、実際に叫んだわけではなかった。

万歳を唱えることは別に珍しいことではなく、「自由万歳」といった表現が民権運動の中でも使われてはいたが、森の功績は、天皇にたいする儀礼として取り入れた点であった。そうすることで、民衆と天皇との一体感を醸し出そうとしたわけであろう。政府部内には、天皇の前で大声を発するのは不敬だという意見も根強かったが、森はそうした反対を押し切って、万歳を導入したのである。もっとも、それが一つの原因になって、森は憲法発布の当日、国粋主義者西野文太郎に切りつけられ、翌日に死んでしまった。まだ43歳だった。

森は文部大臣として日本の教育制度の確立に多大な貢献をしたとする評価が高い。その一方で、君が代斉唱や万歳などを通じて日本人の国民意識の高揚にも意を用いていたわけである。そんな森を、牧原氏は次のように評価している。

「唱歌や隊列運動、万歳などを通して国民的一体感の創出につとめるとともに学歴主義の基礎を作った森有礼文部大臣こそ、福沢諭吉と並んで、近代国民国家の特質を明確に意識していた政治家であった」




  
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