日本語と日本文化


大槻文彦の海防論:高田宏「言葉の海へ」から


大槻文彦は明治2年の「北海道風土記」を手始めにして、「琉球新誌」、「小笠原新誌」とった海防論ともいうべき著作を連続して書き上げた。いずれも日本周辺に位置する島々が日本古来の固有の領土である所以を考証し、これを領せんと虎視眈々と狙う外国勢力に対して防備を固めなければならぬと主張したものである。

蝦夷地の海防に関しては祖父玄沢、父磐渓もまたこれを憂えていた。彼らの基本的な立場は、南下するロシアに備える必要を論じながら、ロシアとの間に一戦を構えるのではなく、むしろ通商を厚くすることによって、平和的な関係を築こうというものだった。

大槻氏以外に、蝦夷地などの周辺の領土に関する海防論を唱えたのは林子平である。子平は「三国通覧」を自費出版して、朝鮮、蝦夷、琉球の形勢を解き、ロシアの南下に備えて蝦夷地の開拓と防備の必要性を唱えていた。

子平の警世については、幕府は不届きの至りであるとして、在所仙台での蟄居を命じるという形で応えた。しかし世界史の動きが早まる中で、ロシアの脅威はますます現実のものとして迫ってきていた。大槻文彦は、父祖を含めた先人たちの海防論を引き継ぐ形で、蝦夷地に関して開拓と防備が急務であると唱えたのであった。

文彦自身は北海道に渡ったことはないが、子平の著作などを参考にしながら、その地理を論じ、ロシアの南下政策の脅威を説いた。

その部分を高田宏氏は次のように紹介している。

「ロシアが国家の体を為したのは近々百余年前で、はじめはヨーロッパの北方にうごめく一夷属、一小国にすぎなかった。英王彼得(ピョートル)氏が襲位してはじめて開物に努め、遂にアジア北部数万里の地を併呑、東はカムチャツカに至り、更に南下して我が蝦夷諸島を蚕食、択捉島にまで及んできた。択捉島はのちに我国がほぼ恢復したとはいえ、猟虎島以北は永久に彼の有に帰し、それ以来,隙をうかがい機に乗じ、苟も小虚あれば即ち寸尺を掠め、以て南出をはかる」

「樺太島は従来北緯50度を境界として、以南は我が国に、以北は満州に属していたが、満州がロシアに帰するに及んでこの島もロシア領に入った・・・慶応元年に二使がロシアの都に赴いて境界の確定にあたったのであるが、応接に不得要領で遂に樺太は領国雑居の地と変じ、ロシアは島の南端に鎮台を置き,大船巨艦を停泊させ、傲然我地を占有している。雑居条約に曰く、両国人民先に来り住むものがこの地を有すと。それならばロシアは必ずや数百千人を移植して、寸地を残さず全島を自領にするであろう」

これを読むと、当時の日本がロシアの脅威にさらされている現状を、文彦が焦燥の念を以て認識していることがわかる。

「琉球新誌」は、琉球の所属を巡って中国から異論が出たときに備えて、琉球がどの点から見ても日本の所属であることを解いたものである。

また「小笠原新誌」は、明治政府による小笠原開拓に英米から横槍が入ったさいに、小笠原が地理的にも歴史的にも日本の所属であったことを証明したものである。

さらに、いまも日韓の間で係争となっている竹島(韓国名独島)問題について、「竹島松島の記事」を書いて、この二島が江戸幕府開府の頃から日朝間で紛争の種になってきた経緯を説明している。

こうした大槻文彦の著作活動は、新しく育ちつつあった日本と云う国の国家意識を踏まえているといってよい。そこには幕藩体制に縛られない、大きな国家意識がはたらいている。しかもその意識の内容は危機感に彩られている。それは代々開国開明を奉じてきた大槻家の国際感覚に根差したものだ、そういえなくもない。


    

  
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