日本語と日本文化


高田宏「言葉の海へ」を読む


高田宏「言葉の海へ」を読んだ。日本最初の本格的国語辞典「言海」の著者大槻文彦の評伝である。一人の学者が日本近代化の象徴である国語辞典を単身の努力で作り上げていく過程を、明治維新と云う歴史的大変動と関連付けながら丁寧に浮かび上がらせていた。その点で、明治維新史のちょっと変わったヴァリエーションとしても楽しむことができる。

大槻文彦は杉田玄白・前野良沢の弟子として日本の蘭学を担った大槻玄沢の孫であり、父親はやはり蘭学者として名をはせた大槻盤渓、兄は大槻如電である。この系譜から読み取れるように、大槻家は徳川末期から幕末にかけて日本の蘭学研究の第一線にあった学者の家系である。その家系のなかから日本最初の国語辞典を完成する文彦が現れた。

大槻文彦はこの辞典づくりを、文部省奉職時に上司の西村茂樹から命ぜられた。時に明治8年のこと。日本は明治維新を経ていよいよ近代国家として歩み始めていたが、諸外国との間では不平等条約を結ばされ、一人前の国家とは到底言えぬ状態だった。いろいろな面でまだ日本は近代国家としての体裁を整えていなかった。教育システムはようやく動き始めていたが、教育の根幹たる国語教育にいたっては、国語辞典もない有様だった。これでは西洋諸国から野蛮と思われても仕方がない。こんな問題意識から、当時日本の教育を整える立場にあった西村茂樹が大槻文彦に国語辞典の作成を命じたのであった。

大槻文彦はほとんど一人でこの辞書の作成に従事し、17年の歳月をかけてやっと脱稿する。出版したのは明治24年のことだ。その出版を祝ってささやかな祝賀会が芝紅葉館で催された。出席した人の顔ぶれを見ると、なかなか興味深い。伊藤博文のように当時日本政治の中枢を担っていた人物が駆けつけて、条約改正に向けての日本近代化の努力の一環として国語辞典の完成を祝ったのはともかくとして、出席者の多くは、文彦の故郷である仙台藩関係者のほかは、明六社の出身者など旧幕派と云われる人々だった。

明治維新史はとかく、薩長はじめ討幕派の西南諸藩の視点から書かれることが多く、旧幕関係者は無視されがちなのだが、実際は日本の近代化に果たした彼らの役割にもバカにならないものがある。大槻文彦はそうした旧幕派を代表する知性として、この大業に取り組んだわけである。

そんなわけで、この本を読むと、大槻文彦を中心にした人々の交友関係が、討幕運動とはまた別の次元で、日本の歴史の水脈を形成していると感ぜられるのだ。

大槻文彦は1847年に生まれているから、明治維新の最中には20歳前後の若者だった。だから討幕の志士といわれた人々や、勝海舟や成島柳北といった幕府側のエリートたちとは一回り世代が違う。しかし父親を通じて、そうした上の世代ともつながっているから、彼の周りには自づから、幕末維新史を彩った人間たちの集団像が漂っている。

大槻文彦は幕府の開成所で基礎教育を受けた。この時の学校の仲間付き合いから、旧幕派と云われる人々との人脈を形成していったと思われる。また横浜の外国人に丁稚奉公して英語を学んだりした。こうした経験を通じて洋学へ目を開いていったわけだ。後に国語辞典を作るに当たり、文彦は日本語と西洋語を比較研究しながら文法学の基礎やら辞典編集の方法論を確立するのだが、そのさいに英語をはじめとした西洋語の理解があったことが、彼の研究を一段と深めることにつながった。

大槻文彦にとって生涯で最も忘れられない経験は、討幕から維新政府の樹立に至る歴史の動きに自らも身を以て参加したことだろう。

慶応3年10月、文彦は大童信大夫とともに京都の仙台藩邸に赴いた。その直前徳川慶喜が大政奉還し、朝廷が各藩に参集命令を出していた。だが各藩は政治情勢がどうなっているのか詳しいことがわからない、そこで徳川につくか朝廷につくかで、日和見をしている。仙台藩も同様だった。そこで藩主を上京させる代わりに代理をやり、形勢を見極めようとする。

だが時間は誰の思惑よりも早く過ぎていく。薩摩が主導権をとって実質的なクーデターを起こし、16歳の明治天皇に「王政復古の大号令」を読み上げさせる。ここに幕府は廃絶され、薩長に刃向うものは朝敵扱いされる。鳥羽伏見の戦いは、佐幕派と薩長との間の象徴的な戦争となった。

この鳥羽伏見の戦いを、大槻文彦は傍観者としてみている。仙台藩はこの闘いに兵を送ることはなかったからだ。しかし、その後の歴史の流れの中で、仙台藩は東北の反薩長勢力の中心となって、朝廷軍との熾烈な戦いをせざるを得なくなる。その責任を問われて、但木土佐ら、仙台藩の重臣にしてかつての開国論者たちが多数処刑された。大槻文彦の父盤渓も、徳川方の肩をもったことをとがめられて禁固刑に処せられる。

こうした体験は、大槻文彦という人間に、権力に思寝ない不屈の姿勢を付与させたと思われる。維新後成島柳北ら旧幕臣たちは、反権力の立場からさまざまな運動に立ち上がったが、文彦もそう派手ではないにしても、新政府の権力主義的政治に対しては厳しく批判するようになる。

明治9年2月、成島柳北は讒謗率違反を問われ、出来たばかりの京橋監獄にぶち込まれた。その際柳北は、文彦に自分にかわって朝野新聞の論説を書いてくれと頼んだ。文彦は言海の執筆に忙しい日々を送っていたが、ほかならぬ柳北の頼みだからと、一か月間だけ執筆を請け負った。彼の論説は、柳北のような憂国の人材でさえ迫害する薩長藩閥政府への批判となって迸った。

「嗚呼明治九年は如何なる歳ぞや、妖気将に陰々として我全国を覆はんとするの勢有り」

彼は薩長の連中が牛耳る新政府の牙城をコテンパンに批判する。彼ら「特別の閥権を振りかざす者」らは「今の普通小学校の学科だも之を知らざる」に、かかる無能の者を閥権で抱え込んで、新政がなるものかという。

こんな具合でこの本は、大槻文彦の生涯と抱負を描きながら、従前とは異なる視点から明治維新という時代を追いかけている。そこのところが新鮮に感ぜられる。


    

  
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