日本語と日本文化


島薗進「国家神道と日本人」


国家神道についての研究といえば、村上重良の「国家神道」がスタンダードなものになっているようだ。島薗のこの本も、村上の研究を土台としていると言えよう。島薗も村上同様、国家神道は明治維新以降に体系化された、作られた伝統であるとし、それがやがて昭和の超国家主義をもたらしたとする。一方、村上が国家神道を、主に神社神道を中心にして論じており、天皇による宮廷祭祀としての側面をほとんど欠落させていることに疑問を呈している。島薗によれば、天皇による宮廷祭祀こそ、国家神道の中核をなすものだということになる。これもまた、神社神道同様、明治維新以降体系化された、作られた伝統には違いないが、国家神道の中核として国民統合の原動力となり、昭和の超国家主義(日本型ファシズム)を駆動した最大の要因だったとする。この宮廷祭祀は、戦後の神道指令の対象から外されたことで、ほぼそのままの形で生き残った。それ故、日本近代の国家神道は、まだその命脈を絶やされずに、生き続けている、というのが島薗の国家神道についての基本的な見方である。

このような問題意識に立って、島薗がこの本の中で特に強調するのは、宮廷祭祀である。宮廷祭祀もまた作られた伝統だったとする見方は、原武志も持っていたが(「昭和天皇」)、島薗はその背景と意義について突っ込んだ分析をしている。宮廷祭祀は天皇家の行事として長い歴史をもっていたわけだが、それを国家の行事として位置づけなおし、そのことによって国民統合のための儀礼として体系化したのは明治維新政府である。その背景には、維新藩閥勢力が自らの権力の正統性の淵源として、天皇を政治利用したという側面があったと思うのだが、島薗はそこまで露骨な言い方はしない。ただ、宮廷祭祀を、祭政一致の重要なファクターとして用いたと言う。国家神道とは、この宮廷祭祀を中核とし、その周囲に神社神道をからませ、両者あいまって祭政一致の体制を作り上げるという政治的かつ宗教的な役割を果たしたのである。この体制は、もともと全体主義的な傾向を内在させていたのであるが、それが昭和に入ると全面的に顕在化し、あの超国家主義につながったとするのが、島薗の国家神道論の骨格である。

宮廷(皇室)祭祀が作られた伝統であるとする見方を、島薗は次のように要約している。「『伝統的』とか『古代以来の』と言われることが多い皇室祭祀だが、実は明治維新に際してきわめて大規模な拡充が行われ、その機能は著しい変化をこうむった。ほとんど新たなシステムの創出といってもいいほどの変容が起こった」。この変容の中身は、祭祀の形式・内容にとどまらず、皇室と国民との関係に甚大な影響を及ぼした。新たに体系化された皇室祭祀は、従来のように皇室内部の行事たるにとどまらず、国民全体を巻き込んだ国家的な行事に格上げされ、そのことを通じて、国民の統合とその上に立つ権力の正統性とを保証する役割を担うようになった。そして、宮廷祭祀の拠点たる伊勢神宮を頂点として神社組織が体系化され、国家神道を組織的に支える体制が整う。これが極端化すると、昭和の全体主義的な体制につながるというのである。

明治維新政府が体系化した国家神道は、天皇制による祭政一致を建前としながら、実質的には政教分離を保証していた。公の場では国家神道が規範とされる一方、個人の宗教的な信仰は私事とみなされ、それが公の秩序を害しない限り、信仰の自由が保障されていた。ところが昭和の超国家主義の段階に入ると、国家神道が宗教としての性格を強めるあまり、個人にもその強要が図られ、ほかの宗教(とりわけ新興宗教)が弾圧される事態が生じる。政教分離が踏みにじられ、祭政一致が個人の内面にまで干渉するようになったわけである。そうした変化の背景には、権力による働きかけのほかに、民衆による下からの働きかけもあったと島薗は言う。そうした動きの背景には、国民の意識の変化というものがあったわけだが、それを基底で左右していたのが、教育勅語だったと島薗は言うのだ。教育勅語は、明治憲法と共に、天皇による祭政一致のイデオロギー的な支柱となったものだが、それが長い間に国民の意識に浸透し、下からのファシズムの運動につながったと言うのである。

島薗は、国家神道の重大な要素として宮廷(皇室)祭祀を強調する立場から、戦後のいわゆる神道解体が、宮廷祭祀を除外していたことから、不十分だった、あるいは(同じことかもしれないが)完全ではなかったと言う。そこに島薗は価値判断を持ち込むことを避けているように見えるが、宮廷祭祀が生き残ったことで、国家神道には重要な要素がそのまま生き続けており、したがってなくなっていないばかりか、いつ大規模に復活しないともかぎらない、という見方をしているようだ。その一つの例として島薗は、戦後の神社神道の政治組織としての意味合いを持つ神社本庁の動きをあげている。この団体は、戦後に神社がこうむった不当な措置に反発し、神社神道に戦前のような国家による護持を取り戻すことを目標としているのであるが、その手がかりとして皇室との結びつきを重視している。神社神道が皇室祭祀と密接に結びつくことで、その目標を現実的なものにしていこうと言うわけである。

もっともいまの皇室には、宮廷祭祀と神社神道を結びつけようとする意図は見られないようだ。一方神社神道側も、国家神道としての政治的な復権をねらうという選択肢のほかに、皇室が象徴天皇としてのあり方を模索したように、庶民との日常的な結びつきを強化する動きも可能性としてはあり、また現実の神社はそうした庶民との結びつきを強めることで生き残ってきたわけであるが、神社本庁がそうした路線を熱心に追求せずに、戦前のような位置づけを取り戻そうとするのは、アナクロニスティックではないのか、そんなことを島薗は匂わせている。




  
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