日本語と日本文化


安丸良夫「神々の明治維新」


明治維新前後に吹き荒れた神仏分離や廃仏毀釈運動。これは素人目には明治維新という歴史的激動期に現われた「奇妙で逸脱的なエピソード」のように見える。安丸良夫も「神仏分離や廃仏毀釈を推進した人々の奇妙な情熱は、どのように理解したらよいだろうか」と問うている。しかし安丸の考えによれば、この運動にも歴史的な背景と必然性のようなものがあったということになる。「神々の明治維新」と題したこの本は、それを裏付けようとする試みだ。

安丸は次のように言う。「新政府が成立すると、彼ら(国体神学の信奉者たち)は、新政府の中枢をにぎった薩長倒幕派によってそのイデオローグとして登用され、歴史の表舞台に立つことになったのであった。薩長倒幕派は、幼い天子を擁して政権を壟断するものと非難されており、この非難に対抗して新政権の権威を確立するためには、天皇の神権的絶対性がなによりも強調されねばならなかったが、国体神学にわりあてられたのは、その理論的な根拠付けであった」

これは、①国体神学は、薩長倒幕派が自分たちの握った権力を正統化するために採用されたこと、②国体神学によって基礎付けられたのは、天皇の神権的絶対性であり、その天皇の権威を通じて、薩長倒幕派の権力基盤を確立したこと、③国体神学の信奉者たちは、薩長倒幕派によって与えられた権力を用いて、自分たちの利害を追及したが、それが神仏分離・廃仏毀釈の運動という形をとった、という諸点に集約されよう。

新政府の権力基盤として国体神学を採用しようとするについては、二つの条件が必要となる。一つは、国体神学の信奉者というかその担い手が広範に存在していること、もう一つは、新政府の担い手であった薩長倒幕派の中に、国体神学についての親和的な態度が醸成されていたこと、この二つである。

一つ目の、国体神学の信奉者の広範な存在ということについては、これは徳川時代を通じて、とりわけ幕末期になって、理論的な深化とその信奉者の普及というかたちで現われていた、というのが安丸の理解のようである。そういう勢力が、明治維新前後には、無視できないものに発展していた。それがなければ、神仏分離や廃仏毀釈が、かなり広範囲にわかり、しかも徹底した規模で行われることはなかっただろう。国家神学の信奉者とは、ほとんどが神道の推進者とかさなりあうわけだが、神道家というのは、徳川時代を通じて仏教の下風を受けていた。その鬱憤を、明治維新前後に生まれた国体神学の興隆の流れのなかで晴らそうというのが、廃仏毀釈を進めたあの奇妙な情熱の理由を説明するものだと安丸は見るわけである。

二つ目の、薩長倒幕派の国体神学への親和性ということについては、これまで学問的に注目されることはなかったと思うのだが、安丸は、薩長倒幕派の勢力こそ、そもそも神道を基礎にした国体神学的なイデオロギーを掲げていた勢力なのであり、それゆえ彼らが明治維新のイデオロギーを国体神学に求めたことには、内在的な要因があったと安丸は見ている。

長州藩と水戸藩については天保改革の一環として廃仏毀釈運動が行われ、薩摩藩と津和野藩については明治維新直前に同様の運動がすでに行われていた。これらの藩のうちで、明治維新で権力を握った薩長両藩と、長州藩の友藩であった津和野藩の神道家たちが中心になって、明治維新以降の神仏分離・廃仏毀釈の運動をすすめてゆくわけである。彼らは、権力の座についた同胞の支援を仰ぎながら、すでに地元で経験していた神仏分離・廃仏毀釈の実践を全国規模で再現しようとしたのである。

こうして見ると、明治維新というのは、政治的にもイデオロギー的にも、徳川体制から薩長藩閥体制への大規模な移行であったということが見えてくる。神仏分離・廃仏毀釈運動というのは、したがって、偶然に起こった奇妙な現象などではなく、政治的・歴史的背景をもったそれなりに必然的な動きだったといえるのである。

こうした動きに仏教側はほとんど抵抗らしい動きを見せなかった。興福寺の如きは、僧侶全員が進んで還俗し、寺院廃滅の危機に直面したほどである。唯一の例外は真宗であったが、これも表立って抵抗したわけではない。表では薩長藩閥の権力に屈すると見せかけて、せいぜいサボタージュをする程度だった。それでも、宗派としての団結を維持したおかげで、宗教としてのアイデンティティをあまり毀損されずにすんだ。多くの仏教宗派は多かれ少なかれ、宗教的なアイデンティティを損なわれたのである。日本人は無神論的な傾向が強いとよく言われるが、その理由の一つは、明治維新前後の廃仏毀釈運動によって、多くの宗教が骨抜きにされ、それにしたがってそれら宗門の信者たちが信仰を失ったという事情がある。それを考えると、日本人というのは、実にすごいことをするものだと思う。国民の宗教心を、短い期間にいとも簡単につぶしてしまうのである。

この運動の影響をもっとも深刻に受けたのは、修験道だったと安丸はいう。修験道の二大本拠地として古い歴史を持っていた吉野と出羽三山のうち、出羽のほうは修験の伝統を完膚なきまでに破壊され、いまではすっかり神社化してしまったという。吉野はそれほどでもないが、やはり修験道の全国的拠点としての勢いを、今は感じさせることがない。

神仏分離・廃仏毀釈運動は結局破綻した、というのが安丸の評価だ。この運動の究極の目的は、神道を国民の一人一人に内面化させるということだったが、神道自体には、人々に内面化されるような、宗教的な実質はない、というのがその理由だ。実質のないものを宗教として押し付けられても、それを内面化して信仰できるというわけでもない。というわけで、神道を内面化できなかった多くの日本人は、宗教そのものに関心を抱かなくなり、その結果無信仰な国民性が形成された。安丸が言いたいのは、どうもそういうことのようである。




  
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