日本語と日本文化


西郷隆盛と勝海舟


勝海舟は、薩摩とはつながりが深かった。それは海舟が長崎海軍伝習所時代に始まる。安政五年(1858)、海舟は伝習所の船で、南西諸島を視察した途次薩摩に立ち寄り、藩主斉彬に面会して、すっかり斉彬の人柄に感服した。その折に、西郷隆盛は斉彬に仕えており、海舟は隆盛とも親しくなった。それが縁で、海舟は薩摩とは結構うちくだけた関係を持つようになったようだ。

海舟は座談のなかで、「薩摩の順聖公は、エライ人だった」と褒めている。藩主の座を相続する以前、久光をかつぐ連中が、斉彬の継嗣を毒殺したが、斉彬は犯人を責めず、一生飼い殺しにした。そこに海舟は斉彬の度量を感じたと言う。そんな順聖公の心持を一番知っているのは俺だ、又西郷は俺の知己だ、だから俺の言うことは、順聖公や西郷の言うことと思って聞け、そう海舟は言って薩摩の連中を脅かしたそうだ。

海舟が斉彬と近づきになったのは、海舟が幕府の役人として、薩摩から琉球にかけて巡察することを知った斉彬が、色々のことを暴かれると思って、海舟になにもかも打ち明け、その上贈物までして、懐柔したというのが実際のところだったらしい。海舟は懐柔されたうえに、斉彬の人柄に惚れたというわけだ。

西郷は、斉彬の庭番をして、じかに斉彬にお目にかかり、一々指図をされ、過激のことを申し上げては打ち叱られ、斉彬の教育を受けて人物となったのだ、と海舟は言っている。そんな西郷に海舟が会ったのは三十五歳のとき、西郷は三十歳だった。

薩摩には色々な党派があった、と海舟は言っている。西郷や大久保の党派、海江田や伊地知の党派、その他多くの党派があり、松方などは、党ではなく役人のほうだったという。そんな党派争いがあったせいで、西郷は二度も離島謹慎という憂き目を見たのだろう。しかし薩摩のいいところは、対外的には一致団結できたことであるらしい。少なくとも、維新までは、薩摩は結構対外的な危機の場で団結した。もっとも最後には、ああいうこと(西南戦争)になってしまったが。

大政奉還前後における、海舟と薩摩のかかわりについては、海舟は座談のなかで語っていない。語っているのは、江戸城明け渡しの会見の場で、西郷と対面したことだ。この会見に西郷が来るというので、海舟は安心したそうだ。危ないから二大隊率いてゆけといわれたのをことわり、単身で出かけたのも、相手が西郷だったからだ。そんなわけで、この会談は円満に運び、すぐにまとまった。それについては、海舟のほうも西郷の方も色々と苦労があったのだと海舟は言う。海舟の方は、幕府のほかの連中から、あっさり降参してひどい奴だと責められたし、西郷の方は、伏見戦争の後で反幕感情が高まっており、それを押さえるのに苦労した。だから、海舟と西郷の組み合わせでなかったら、この会談は成功しなかったかもしれない、そんなふうに海舟は匂わせている。もっともこれは、自分の功績を強調したいためなのかもしれないが。

西郷が西南戦争で死んだことについては、西郷は不平党の連中と情死したのだと言って、海舟はかなり冷めた見方をしている。西郷は「不平党のために死んだ。西郷はああ云ふ時は、実に工夫の出ない男で、智慧がなかったから、ああなった。なに、あれ丈の不平党を散らすのは、訳はないのだがね」と言うのである。西郷は智慧がないからああいうことになってしまったが、俺だったらずっとうまくおさめたよ、とここでも海舟は自慢をしているわけである。

智慧がないのは、西郷だけではなく、薩摩人に共通した特徴だ、と海舟は見ていたようだ。座談のなかでこんなことを言っている。「長州は智慧に屈託するが、薩摩は、感激する所が未だに残って居る。黒田の病気を見舞いにいった時、薩摩の大株が大分居たから、ひどく悪口を言ってやった。有もせぬ智慧才覚はおよしなさいと」

たしかに長州人には智慧才覚を誇るところがいまだに見受けられる。維新の立役者であった薩長二大藩閥のうち、薩摩の閥族はすっかり勢力がなくなってしまったが、長州人はいまだに閥族意識を持って世の中を壟断している。戦後も、岸・佐藤の兄弟が長州閥の利害を代表してきたし、いまでも安倍晋三にきっちり引き継がれている。彼ら長州人は、智慧才覚を駆使して、綿密かつ遠大な策略を弄し、自分たちの閥益を守るのがうまい。そういうやり方を国家の私物化だといって非難する者もあるが、当の彼らにしてみれば、もともと日本には国家などなかったところに、国家を作り上げたのは自分たちだという意識があるから、そんな非難はどこ吹く風、といった具合だ。

話が薩摩から長州の方へそれてしまったが、ここで西郷にまつわる逸話をもう一つ。勝の小星のひとり森田米子の回想に、勝が西郷を二度ほど迎えたとき(文久三年、紀州でのことらしい)の様子を語ったところがあるが、その際勝は羽織袴で応接したそうだ。勝は大抵、普段着のまま来客に会っていたというから、これは西郷に対して、勝としては最大の礼儀を以て臨んだということだ。余程西郷を大事に思っていたのだろうと思われる。

(追記)「氷川清話」では、海舟が初めて西郷に会ったのは、元治元年(1864)、大阪でのことだったとしている。この時に、西郷は海舟を訪ねて、神戸開港延長の是非について問いただしたということだが、これは、海舟と西郷が一対一で国事を論じた最初のことだという意味と受け取れる。海舟が島津斉彬と交わった時に、西郷はその身辺にいたわけだから、当然二人は面識があったと考えてよい。





  
.


検     索
コ ン テ ン ツ
日本神話
日本の昔話
説話・語り物の世界
民衆芸能
浄瑠璃の世界
能楽の世界
古典を読む
日本民俗史
日本語を語る1
日本語を語る2
日本文学覚書
HOME

リ  ン  ク
ブログ本館
万葉集を読む
漢詩と中国文化
陶淵明の世界
英詩と英文学
ブレイク詩集
マザーグースの歌
フランス文学と詩
知の快楽
東京を描く
水彩画
あひるの絵本





HOME日本史覚書次へ





作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2017
このサイトは作者のブログ「壺齋閑話」の一部をホームページ向けに編集したものである