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山川菊栄「武家の女性」


山川菊栄の「武家の女性」は、自分の母親とその家族を中心にして、幕末・維新期の日本の武家の女性の生き方を描いたものだが、単に女性にとどまらず、当時の武士社会の生活ぶりが生き生きと描かれている。菊栄が生まれ育ったのは水戸藩で、水戸藩固有の事情も随分働いているとは思うが、武士階級の置かれていた基本的な条件はさほど異なってはいないと思うので、この本を読むと、幕末頃の武士の生活ぶりがよくわかるのではないか。

日本の人口は徳川時代を通じて、ほぼ三千万人前後で推移し、大幅に増加することはなかった。それは生産力の限界があったからで、その限界が人口の増加を許さなかったのである。この限界は、農民階級の場合には耕作地の限界という形をとったが、武士階級の場合には、禄高の限界という形をとった。一部の例外を除いて、各藩とも禄高が増加することはなかったから、その限られた禄高をもとに、武士団を養わねばならなかった。水戸藩の場合には、二十数万石の禄高を以て約千人の武士とその家庭を養っていた。そのうち百石に満たない貧しい武士が七割を占めていたということだ。そんなわけで水戸藩においては、武家の生活は非常に苦しいものであった。この苦しさが、水戸藩士を分裂させ、互いに血で血を洗うような抗争に走らせた基本的な原因だと菊栄は分析している。禄高が限られているために、少しでも収入を増やしたいと思えば、藩の役職について役職手当をもらうほかに方法がない。それゆえ水戸藩の武士たちは、この役職を求めて互いに争い、それが高じて血で血を洗うような抗争に発展したと言うのである。

この抗争を助長した要因として、水戸藩独特の派閥争いがあった。水戸藩は、藩主の徳川斉昭みずから尊王派であったが、その尊王派の巨魁が藤田東湖であった。東湖は斉昭をけしかけて尊王運動を盛り上げたが、これに対して佐幕派の勢力が対抗した。尊王派は後に天狗党となって日本を震撼させた。特に文治元年には天狗党の勢いが頂点に達し、水戸藩内は天狗党と佐幕派の諸生党とが血で血を争う大抗争を展開した。その結果水戸藩の人材は種が尽きたと菊栄は言っている。

この流血騒ぎのもともとの原因を作ったのは藩主の斉昭とその取り巻きの東湖だという意見が維新のころには有力になり、この二人は水戸の人々に憎まれたそうだ。特に東湖は、譜代の家臣ではなく、古着屋を営んでいた町人が成り上がったという事情から、「古着屋」と言ってさげすむものが多かった。菊栄の祖父もその一人だったようだ。意外といえば意外である。

こういう波乱に富んだ時代にあって、水戸藩の武家の女性たちは多くの苦難に直面した。藩内の抗争、それは内乱と言ってもよいが、その抗争の結果、二千人近い人が死に、何百という家がとりつぶしにあった。その苦難をもっとも強く受けたのが女性たちだったわけだ。だが彼女たちこそが、その苦難を乗り越えて、生き残った子供を育て、家の再興に尽くしたのだった。すなわち、「男は死に絶えて女系によって再興された家が多く、母親の人柄や能力が、この苦難時代を乗り切る上にどれほど大きい力を持ったかはいうまでもありません」と言うのである。

水戸藩に限らず、女性の力が日本の国力を底辺で支えた、と菊栄は思っているようだ。なかでも貧しい武家の女性たちが果たした役割は大きい。そのことは、「日本の教育界に大きな貢献をした明治初期の女教員のほとんど全部が、田舎の貧乏士族の娘だったこと、また最初の紡績女工の仕事を進んで引き受けた義勇労働者もそれらの娘たちだったこと」に現れている。その一方で、没落した旗本の娘の中には、芸娼妓や妾奉公に出たものが多かったと菊栄は言っている。

そうした女性たちを教育したのは、家庭でのしつけだったと言って、菊栄は武家社会における家庭教育の重要性を強調している。その教育の要諦は、女は己を空しくして人に仕えるという姿勢を叩き込むことだった。そんなわけで女の子は男の子に比べて粗末に扱われた。そうすることで忍耐心を養わせようとしたわけである。

女が粗末に扱われたという点では、結婚後も大きな変わりはなかった。徳川時代には離婚率が非常に高かったが、離婚の理由には男の側の勝手によるところが多かった。それにからめて、菊栄は「女大学」のなかの離婚の原因を論じた部分(七去論)とそれに対する福沢諭吉の批判を取り上げているが、それを読むと、夫人の権利がいかにないがしろにされていたかがわかるというわけである。

面白いのは、徳川時代には妾の制度がなかば公認されていたということだ。その最大の言い訳は、本妻に子がない場合には妾に子を産ませることが許されるという理屈だったが、実際には複数の妾を持つものが多かったりして、妾の制度に大きな欺瞞があることを菊栄は指摘している。

ともあれ、妻が一方的に離縁されるケースは維新後には大幅に減った。それは新しい婚姻法の効果だと言って、菊栄は妻の地位が在来よりはるかに安定したことを喜ばしいこととして評価している。菊栄は言う、「封建時代の家族制度は、一面ではどういう時代にも必要な勤労、節度、忍耐、規律への服従というような美徳を養い、それを根強い伝統として発達させたと同時に他の一面では、家の名で、今日から見て不合理な親権の濫用や、妻の地位の不安定によって、かえって家族生活そのものを危うくし、子女の幸福を破壊する暗黒面をも伴ったことは明白で、この点で、明治以来の社会の進歩は、日本の女性のため、かつ国民全体のために祝福されなければなりません」

社会の進歩は、女性の地位の向上に加えて、武士を含めて、人々の生活が楽になったことにもあらわれている。徳川時代には、みな日々の生活に苦しみ、国全体として停滞していた。それは人口が増えなかったことに現れている。しかし明治時代になると、個々人の生活は楽になり、また国全体も豊かになっていった。人口の増加はその最大のしるしである。こういう面については、菊栄は素直に評価している。



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