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大化の薄葬令


山折哲雄氏は、日本書紀の「孝徳記」に記されている大化2年(646)の勅、いわゆる「大化の薄葬令」を取り上げて、そこに古代日本人の葬儀に関する考え方を読み解こうとしている。(日本人の霊魂観)

この勅令は、王族から庶民にいたる葬儀の簡略化を命じるものであって、内容は①経費の節減、②身分による葬制規模の別、③死骸の一定墓地への集理、④殉死の禁止の四項目からなっている。

このうち②の身分による葬制規模の別には次のような規定がある。

「庶民亡(し)なむ時には、地に理(おさ)めよ。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)の等には、(あらぎぬ)を用ゐるべし。一日も停むることなかれ。凡そ王より以下、庶民にいたるまでに、殯営(つく)ること得ざれ。凡そ畿内より、諸の国等に及ぶまでに,一所に定めて、収め埋めしめ、汚穢しく処々に散し埋むること得じ」

庶民の死に際しては、粗末な帷子を着せただけで地面に埋めよ、一日もそのままに放置しておいてはならぬ、王以下庶民に至るまで、殯を営むことは許されない、畿内をはじめ諸国ではそれぞれ埋葬地を定め、すべての死体はそこに埋めて、汚らしく散乱させてはならない、という内容である。

この勅令は、当時庶民や王族の間で行われていた葬祭の有様を、逆説的にあぶりだしているともいえる。すなわち貴族は無論庶民においても、この時代まで殯の風習が生きていたこと、それにともなって、遺体は死後数日の間、風葬という形で放置されていたこと、また遺体がかなり長い間腐乱した状態で放置されることもあったらしいこと、などである。

ここでは「薄葬令」の対象は王以下庶民であって、天皇は含まれていないことに注目される。実際にこの発令の直後ともいえる時期に、天智、天武両天皇の死を巡って大規模な殯が営まれている。

王族についても、きちんと守られたわけではなかったらしい。たとえば柿本人麻呂は、「大化の薄葬令」発布の約半世紀後に、草壁皇子の死に際しての殯宮に長歌を寄せているし、高市皇子の死に際しての「城上の殯宮」にも言及しているからである。人麻呂はまた王女明日香皇女の殯宮に際しても長歌を作っている。

では庶民の間ではどうだったか。詳しいことは分からないが、平安末期の餓鬼草子などには、庶民のあいだに風葬の習慣が残っていたことを伺わせる光景が描かれているので、庶民の間においても、「大化の薄葬令」の趣旨は必ずしも浸透しなかったことを伺わせる。

ところで、「大化の薄葬令」をよくよく分析すると、そこには矛盾した考えの共存していることに気づく。一方では、葬祭の簡素化をうたっていながら、他方では、遺体を放置させていないで、即座に決められた墓地に運んで埋葬することを求めているのである。殯をもうけずに則埋葬することは、たしかに葬祭の簡素化につながったかもしれないが、一国一か所に指定された埋葬場所に遺体を持って行って、しかも死んだ当日に埋葬することは、少なくとも庶民にとっては、大きな負担になったに違いない。

いずれにせよ、この「大化の薄葬令」があまり尊重されなかったことはたしかなようだ。その理由はいろいろあるだろうが、やはり古代日本人が抱いていた霊魂観が、決定的に働いていたのであろうと考えられる。

つまり、人間が死ぬと、そこから魂がいったん抜け出て遊離魂となるが、その魂は一定の期間死者の周りに漂っていて、場合によっては再び戻ってくることもある、つまり死者が蘇生することもありうる、そう古代の日本人は信じていた。それ故、游離婚が再び戻った時に、無事宿ることのできる肉体を確保しておかなければならない。そうでなければ遊離魂は無事蘇生することができない。

殯とは、この遊離魂が再び肉体に戻って蘇生することを成就させるためのものとして、古代の日本人が考え出した装置だといえる。それは王侯の間では大掛かりな儀式を伴ったであろうし、庶民の間でもそれなりの宗教儀式を伴っていただろう。それをやめさせようとしても、そう簡単にはいかなかった、というのが歴史の真実なのだろう。


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