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子どもの死と葬送


子どもの死ほど悲しいものはない。また、子どもの葬儀ほど、みて痛々しいものはない。火葬に付しても、七つ八つくらいまでの小さな子は、骨が十分に発達していないから、あっという間に焼けてしまい、あとには灰しか残らないこともある。それでも、子を失った親たちは、遺灰を小さな壺に収めて家族の墓に葬り、やがては自分たちも一緒に入るよと、その冥福を祈るであろう。

そんなに遠くない時代まで、子どもの死は珍しいことではなかった。徳川時代から近代の夜明けにかけては、七人八人と産んだ子が、全員無事に育つことのほうが珍しかったくらいで、子どもの死亡する確率は高かったのである。また、農村では、苦しい時代の口減らしとして、嬰児殺しが組織的に行われたという記録もある。

死んだ子を、昔の日本人は、どのように葬送していたのだろうか。

日本人は、古来子どもというものに対して、特別な感情を持っていたと考えられる。中性のヨーロッパ人が、子どもを特別視せず、未熟か、あるいは出来損ないの大人としか見ていなかったことは、アリエスが「子どもの誕生」という本の中で、力説したところである。このような文化にあっては、子どもの死も、特別なものではなく、その埋葬も無頓着に行われただろう。

しかし、同時代の日本人は、子どもの死を特別のこととして受け止めていた。子どもも、大人と同じく霊魂を持つ存在であったが、大人と違い、その霊魂は、まだ十分に発達せず、いわば、花が開いていないものであった。そうであるから、その霊魂は、慰められ、いつくしまれるべきものであった。

大人が死んだ場合、遺体は霊魂の抜け殻であり、たんなる「もの」に近いものとして扱われた一方、遊離した霊魂は敬して遠ざけられ、やがてご先祖様として、神になることを期待された。

ところが、子どもの霊魂は、親たち遺族のもとに戻ってくることを、強く期待されたのである。

まず、子どもの遺体は、大人の場合におけるような無頓着な扱いは受けなかった。その墓も、子どもが生き返ったときに、容易に出てこられるような工夫がされた。遠く離れた墓地ではなく、家の敷地の中に埋めるようなこともあったようである。

死んだ子どもの霊魂が、別の生を受けて、生まれ変わることも、強く期待されていた。ある子どもの霊魂が、ほかの子どもの形をとって生まれ変わるという信仰は、仏教の輪廻転生とも係わりがあるだろうが、日本古来の霊魂観に深く根ざしていると思われるのである。

死んだ子どもが生まれ変わったときに、すぐそれとわかるように、子どもの遺体にしるしを付ける風習が広く見られたのは、このような霊魂観の現れである。同じようなしるしが認められる子どもが生まれてきたならば、それは死んだ子の生まれ変わりに間違いないのであった。

今の子どもたちは、昔の子どもに比べ、死ぬ確率は限りなくゼロに近くなった。それでも、不幸にして死ぬ子どもはいる。だが、今の親たちは、昔の親のようには、子どもの霊を慰めるための十分な余裕をもてないようだ。今の子は、大人と同じように火葬にされ、殆どが大人と同じ墓に入る。彼らは、ほかの姿に生まれ変わるよりも、天国にやすらうことを期待されているようだ。


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