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鈴木大拙「禅問答と悟り」を読む


「禅問答と悟り」は、昭和十六年(1941)大拙満七十歳のときの著作である。タイトルにあるとおり、禅問答と悟りをテーマにしている。大拙のこの本でのスタンスは、禅というものは悟りをめざしているのであり、悟りを伴わない禅経験はありえないということと、その悟りとはいかなるものか、それを他人にわからせるのが禅問答であるということになる。だから、禅問答は悟りの内容を披露しあう実践である。

禅問答がわかりにくいのには理由がある。禅問答は悟りの内容を披露しあうものであるが、その悟りは言葉によっては表現できない。実際に体験してみなければわからない。しかし実際に体験したものにとっては、ちょっとしたヒントによってありありと再現できる。そのヒントは、論理的な言葉ではありえない。論理は分別を語るものであるが、悟りは分別を超えたものだからである。禅の公案に「父母未生以前」というものがあるが、それは分別があらわれる以前の無分別の状態をさす。だが単なる無分別ではない。分別を内包した無分別、それを大拙は分別の無分別、無分別の分別と呼んでいるが、ようするに論理が介入する以前の状態ということである。悟りはそのような始原的な状態をめざしているので、言葉で論理的に説明できないのである。それゆえ禅者は不立文字といって、言葉による解説を軽視するのである。

とはいえ、人間というものは、元来が言葉を通じて思いなり考えなりをかわしあうようにできているものである。言葉とは、人間が社会的な動物であることの条件であって、言葉がなければ人間の社会生活は成り立たない。そういう意味では、禅の悟りは人間の社会的な面とは別の方面にかかわりを持つものである。それについて大拙は霊性というものを持ち出す。人間には知性とか感性と並んで霊性というべきものがあって、その霊性がおのずから悟りをもとめさせるように働く。知性や感性が人間を基礎づけるのとはまた異なった次元で、霊性は人間を基礎づける。だから悟りは人間の根本的な衝動だというのが、大拙の考えである。

そういうわけであるから、人間は本来悟りを求めるようにできている。その悟りを得させてくれるものとして、とりあえず禅がある。だが禅だけが悟りへの道を開いてくれるわけではない、真宗の念仏だとか、キリスト教にも悟りへの道は用意されている。それらの道はさまざまだが、目指すところは同じである。つまり違う道を通っても、到達するところ、すなわち悟りの境地は同じものである。

その悟りの境地を大拙はなかり抽象的にとらえているようだ。大拙本人は、悟りの体験は非常に具体的なものであり、抽象的な要素はないというのだが、しかし彼の言うところをつぶさに考えれば、かれが悟りの本体と言っている仏性なるものは、きわめて抽象的なものである。宗教というのは、人格神をあがめるところに基礎を置くと思うのだが、仏教においては、阿弥陀信仰を別にすれば、リアルな人格神ではなく、抽象的な原理としての仏性を目指している。そんなことから西洋の学者には、仏教を宗教ではなく、哲学あるいは倫理だというものもある。

ともあれ大拙に従えば、仏教の本意は悟りを得ることであり、その悟りとは仏性に目覚めることである。それゆえ悟りの体験は、本来が極めて私的な体験といってよい。だが人間はその体験を人に語らねばすまないようにできている。そこに禅体験を語るものとしての禅問答というものがある。禅問答は、自分自身の悟りの体験を語り合うものである。だがその悟りは言葉によっては表現できない。つまり論理的には表現できないということである。しかし人間は、言葉を用いなければ適切な伝達行為ができない。だが禅体験は言葉によっては表現できないといった。ではどうすれば、禅の体験を他者に向かって表現することができるのか。

これはアポリアといってよい。言葉によって本来説明できないことを、言葉のやりとりである問答を通じて理解しあうというのが禅問答の目的なのだから、どうしてもそこに難儀が生じる。その難儀は、言葉によって論理的に説明できないことを、しかも言葉を通じて伝達しようとすることに発する。この難儀は、言葉の使い方をわきまえればなんとか乗り越えることができる。言葉には、論理的な使い方と象徴的あるいは比ゆ的な使い方がある。象徴的というのは、ある事象の意味を別の具体的な事象によって指示することである。比ゆも同じである。ある事柄を別の事柄で指示するのである。

禅の体験に即していえば、その体験を論理的に説明することはできぬが、象徴的あるいは比ゆ的にいうことはできる。それが成り立つためには、問答するもの同士の間に共通する体験がなければならぬ。その体験を持たないものに、それについてどんな説明をしても無駄である。メロンを食ったことのないものに、メロンのうまさについていくら説明しても、そのうまさを正確にわかってもらえることはない。だが、スイカをもちだして、それとの比較で、メロンの味を類推させることはできる。それが比ゆの力である。

禅問答は、比ゆによって禅の体験を語り合うものだということができる。比ゆはあくまでも間接的な手法であり、対象をストレートに理解することはない。しかし、大拙は、禅問答によって、悟りの境地がストレートに分かり合えるといたいようである。そう言えるのは、禅者の体験には共通するものがあって、その共通する体験の内実が、言葉の象徴的な使い方を通じて再現されるからだろう。つまり、以心伝心というやつである。ちょっとしたきっかけで互いの心の中をのぞきあうというのが以心伝心の意味であるが、そうした相互意思伝達が成り立つためには、テレパシーのようなものが人間同士の間に働いていると仮定しなければなるまい。じっさい大拙は、ユングのテレパシー論などを引用しながら、人間にはもともとテレパシーの能力があって、その能力によって、言葉では伝達できない悟りの内容を、他者にむかってありありと再現して見せることができると考えていたようである。

ともあれこの本は、おそらく大拙本人の禅体験を踏まえながら、禅体験の目的である悟りがいかなるものか、そしてそれが禅問答においてどのように伝達されてきたかを、リアルに開陳して見せたものだといえる。


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