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仏教の大意:鈴木大拙の仏教概論


「仏教の大意」は、昭和二十一年すなわち敗戦の翌年の四月に、鈴木大拙が昭和天皇に進講した話に多少の手直しを加えて文章にまとめたものである。テーマは、タイトルにある通り、仏教の大意あるいは仏教概論といったものである。敗戦の直後に、大拙がなぜ昭和天皇にこのような講義を行ったか。天皇の意を受けた宮中サイドから、大拙に依頼があったと考えるべきだろう。敗戦の混乱の中で、昭和天皇としては、自身の戦争責任を含めて、さまざまに思い悩んでいたことであろう。そんな昭和天皇の胸中を察したのであろう。大拙は、仏教というものがいかに、人間の心をなぐさめてくれるものか、それを昭和天皇に悟ってもらえるように、丁寧に語っている、そんな雰囲気がこの著作からは伝わってくる。

二日間にかけて行われた進講の内容は、一日目が「大智」と題して、宗教心のよってきたる所以のもの、その宗教のなかでも仏教が人間にとって持つ意味を語っている。二日目は「大悲」と題して、仏教を華厳的な世界観にもとづいて語っている。大拙は、禅の修行を通じて、禅によって得られるさとりの境地とは、言葉にあらわされるようなものではないが、あえて言葉で表現すると、華厳経で説かれているような境地がそれに当たると考えるにいたった。その考えを大拙は、すでに「華厳の研究」というかたちで説明していたが、その説明を踏まえたうえで、ここでは仏教の大意としての華厳的な世界観が語られるのである。

まず、宗教心すなわち信仰のよってきたるところ。大拙は、我々人間の生きているのは二つの世界だという。一つは感性と知性の世界、もう一つは霊性の世界である。通常我々は、感性と知性の世界にもっぱら生きており、霊性とは無縁と思っているものが多い。感性と知性の世界では、分別智がものをいい、だいたいそれですんでしいまうものだが、しかし分別智だけだはどうにもならぬ場合がある。そういう時に、霊性的なもの、つまり宗教的なものが意味を持つ。霊性に目覚める時、人間には霊性的世界が開けてくると大拙は言う。しかしその霊性的世界は、感性的知性的な世界と異なったものではない、事実は一つの世界があって、それが二様に見えるということである。「人生の不幸は、霊性的世界と感性的分別的世界とを二つの別々な世界で相互にきしりあうと考えるところから出るのです。渾然たる一真実の世界に徹せんことを要します」

霊性的世界については、分別智は通用しない。分別智は感性的知性的なものだからである。霊性的世界では、無分別の智が働かねばならぬ。その無分別の智を大拙は般若の智と言っている。これは金剛般若経にいう即非の論理にしたがうものであって、「無智の智、無分別の分別、無念の念」という逆説的な言い方でしか表現できないものである。それゆえ般若の智は、不可思議といわれる。思議とは分別することであり、それを否定するのが般若の智だからである。

こういうことで大拙が意図していることは、仏教もほかの宗教も、それを会得するには、一旦は知性の領域を逸脱しなければならないということである。知性にとらわれている限り、霊性的なものは会得できない。知性がやむところにはじめて霊性的な世界が開けてくる。これはパスカルの言い方と非常に似ている。大拙はパスカルには全面的に共感するわけではないが、宗教的な体験と知性との間にある種の飛躍を見るところは共通している。だが、パスカルがその飛躍を断絶として捉え、信仰の対象を超越的な実在とすることには異論を唱える。大拙にあっては、霊性的世界と感性的分別的世界とは、互いに断絶しあうものではなく、唯一不二である。その唯一不二のものが、異なった相で現れるにすぎない。

ついで、二つ目のテーマである「大悲」について。ここでは華厳の世界観が語られる。華厳思想を理解するためのキーワードとして二つのものがある。一つは事、もう一つは理。「事は『個』・『特殊』・『具体』・『原子』などの義です。理はこれに反対するものを意味する。すなわち『全』・『一般』・『抽象』・『原理』などの義です。今までの仏教用語でいえば、事は分別・差別ということ、理は無分別・平等などです。般若経典では多く、色と空といいます。色は事に、理は空に相応する」

この二つのキーワードの組み合わせから、理事無礙、事事無礙という言葉が作られる。理事無礙とは、個と全、特殊と一般、具体と抽象、原子と原理とが、相互に分離対立せずに、円融しているさまをいう。別の言葉でいえば、一則多、多則一である。この場合、一と多ではなく、則に重点が置かれる。そのままにして一と多が円融するということを強調するのである。般若経にいう色即是空も同じことを言いあらわしている。

理事無礙のほかに事事無礙という組み合わせがある。唐の時代に法蔵という仏教学者があらわれて、華厳思想を深めたのであるが、その法蔵の教説のキー概念となるものである。理事無礙は、一則多、多則一の円融を説いたものであるが、事事無礙は、個別者同士が円融している状態をさす。これはすべての個別者が互いに深く結びつき、どの一つの変化も全体の変化をもたらさないではおれないという意味である。そのことから、一切衆生は平等の価値をもち、すべての個別者が救われねばならぬという主張につながる。そこで大悲という言葉が意味をもつのである。「華厳の事事無礙法界を動かしているのは大悲心にほかならぬのである」

事事無礙法界とは、四種法界の一つである。四種法界とは、理と事の組み合わせからなり、理法界、事法界、理事法界、事事法界からなる。法蔵がもっとも重視するのは事事法界である。

この大悲心を世情一般の愛と混同してはいけない、と大拙は言う。愛は特定の対象にとらわれている。大悲心はいかなる対象にもとらわれることがない。衆生すべてを抱擁するのである。そこで大拙は、大悲心の具現化したものとして、阿弥陀仏とか観音菩薩を説明する。阿弥陀仏も観音菩薩も、一切衆生を救済せんとする大悲心そのものなのである。特に阿弥陀について大拙は次のように強調する。「弥陀の誓願は華厳の世界を此土に現前せんとするのです。霊性的直覚の法界は弥陀の浄土の義です。そうして弥陀はわれらの一人一人にほかならぬのです。事事無礙の法界を打して一丸とすれば弥陀となる、弥陀の大悲が分裂して個個事事の真珠となれば、われら衆生もまた一一に浄土の荘厳であるのです」

以上、大拙がこの著作でもっとも力を込めて主張したことは、人は知性や道徳だけでは生きていけないということであった。それ以外の何者かが切実に必要となる。その何者かを大拙は、霊性的という言葉で表現したわけであろう。


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