日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




はいずみ(五):堤中納言物語


此の男、いと引切りなりける心にて、 「あからさまに」 とて、今の人もとに昼間に入り來るを見て、女に、「俄に殿おはすや」 といへば、うちとけて居たりける程に、心騷ぎて、 「いづら、何處にぞ」 と言ひて、櫛の箱を取り寄せて、しろきものをつくると思ひたれば、取り違へて、はいずみ入りたる疊紙を取り出でて、鏡も見ずうちさうぞきて、女は、 「そこにて、暫しな入り給ひそ、といへ」 とて、是非も知らずさしつくる程に、男、 「いととくも疎み給ふかな」 とて、簾をかき上げて入りぬれば、疊紙を隱して、おろおろにならして、口うち覆ひて、夕まぐれに、したてたりと思ひて、まだらにおよび形につけて、目のきろきろとしてまたゝき居たり。

男見るに、あさましう、珍かに思ひて、いかにせむと恐ろしければ、近くも寄らで、 「よし、今しばしありて參らむ」 とて、暫し見るも、むくつけければ往ぬ。

女の父母、「斯く來たり。」と聞きて來たるに、 「はや出で給ひぬ」 といへば、いとあさましく、 「名殘なき御心かな」 とて、姫君の顔を見れば、いとむくつけくなりぬ。怯えて、父母も倒れふしぬ。女、 「など斯くは宣ふぞ」 といへば、 「その御顔は如何になり給ふぞ」 ともえ言ひやらず。

「怪しく、など斯くはいふぞ」 とて、鏡を見るまゝに、斯かれば、我もおびえて、鏡を投げ捨てゝ、 「いかになりたるぞや。いかになりたるぞや」 とて泣けば、家の内の人もゆすりみちて、 「これをば思ひ疎み給ひぬべき事をのみ、彼處にはし侍るなるに、おはしたれば、御顔の斯く成りにたる」とて、陰陽師呼び騷ぐほどに、涙の墮ちかゝりたる所の、例の膚になりたるを見て、乳母、紙おし揉みて拭へば、例の膚になりたり。

斯かりけるものを、 「いたづらになり給へり」 とて、騷ぎけるこそ、かへすがへすをかしけれ。

(文の現代語訳)

この男は、せっかちな性分で、「ちょっと言ってみよう」と思い、新しい女のところへ昼間に行ってみたのだった。それを見た侍女が女に、「急に殿がおいでになりました」と言うと、女はくつろいでいたところにびっくりして、「どちらに、どこにいるの」と言いながら、櫛の箱を取り出して、おしろいをつけようとした。ところが取り違えて、はいずみの入った畳紙を取り出し、鏡も見ないで塗りたくった。「そこで待つようにして、しばらく入ってこないように言いなさい」と言って、無我夢中で塗りたくっているうちに、男が、「またずいぶん早く嫌われたものかな」と思いながら簾をかきあげて入ってきたので、女は畳紙を隠すと、墨をいい加減にならし、口を袖で覆いながら、夕方の薄明かりの中で化粧したかと思われるような、まだらな調子に化粧をして、目をきょろきょろさせながら男を見ていた。

男はそれを見ると、あきれ返って、珍しいものを見るような気持ちがし、どうしたらよいかと恐ろしいので、近くにも寄らず、「よし、もうしばらくしてから来よう」と言うと、ちょっとの間いるのも気味が悪いので行ってしまった。

女の両親が、男が来たと聞いてやって来ると、「もうお出でになりました」と言うので、あきれ果てて、「ずいぶん冷淡な心かな」と思いながら姫の顔を見れば、たいそう不気味な顔つきになっている。これには両親もびっくりして、倒れ込んでしまったのだった。娘が「なんでそんなことをおっしゃるの」と言っても、「その顔はどうしたのか」とも言えないのであった。

女が「変ですね、どうしてそんなことをおっしゃるのかしら」と思いながら鏡を見ると、ひどい様子なので、自分でもびっくりして、鏡を投げ捨ててしまった。そして「どうしたのかしら、どうしたのかしら」と言いながら泣き騒ぐと、家中が大騒ぎになり、「姫君を嫌いになるようなおまじないを、あちらのお方がしているので、旦那様が来られたときに、このようなお顔になってしまったのでしょう」と言う者もあった。そこで陰陽師を呼んで引き続き大騒ぎをしているうちに、女の顔の涙に濡れたところがはげてもとどおりになっているのが見えたので、乳母が紙をもんでぬぐってやったところ、いつもどおりの顔になったのであった。

こういう事情だったのに、「姫君のお顔がだいなしになった」と言って騒いだと言うのは、かえずがえす滑稽なことであった。

(解説と鑑賞)

最後の段落が新しい女への幻滅を描くところは、伊勢物語の「筒いつの」と同様である。「筒いつの」の場合には、新しい女の家を久しぶりに訪ねた男が、女が手づから飯を盛って食っている姿を垣間見て、その世帯じみたところに幻滅するというようになっているが、ここではもっとひどいことになっている。

新しい女は、男がいきなりやって来たことで、あわてて化粧をしたところ、おしろいと間違えて「はいずみ」を塗り、化け物のような顔になってしまったのである。「はいずみ」とは、ろうそくの煙からできた墨のこと。そんなものを塗れば、顔が真っ黒になってしまうのは道理だ。


HOME日本の古典堤中納言物語次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである