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蟲愛づる姫君(一):堤中納言物語


蝶愛づる姫君の住み給ふ傍に、按察使の大納言の御女、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづき給ふ事限りなし。この姫君の宣ふ事、「人々の、花や蝶やと賞づるこそ、はかなうあやしけれ。人は實あり。本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」 とて、萬の蟲の恐しげなるを取りあつめて、「これが成らむさまを見む。」とて、さまざまなる籠・箱どもに入れさせ給ふ。中にも、 「鳥毛蟲の心深き樣したるこそ心憎けれ」 とて、明暮は耳挾みをして、掌にそへ伏せてまぼり給ふ。

若き人々は怖ぢ惑ひければ、男の童の物怖ぢせず、いふかひなきを召し寄せては、箱の蟲どもを取らせ、名を問ひ聞き、今新しきには名をつけて興じ給ふ。「人はすべてつくろふ所あるはわろし」 とて、眉更に拔き給はず。齒黑更に「うるさし、穢し」とてつけ給はず。いと白らかに笑みつゝ、この蟲どもを朝夕に愛し給ふ。人々怖ぢ侘びて逃ぐれば、その御方は、いと怪しくなむ詈りける。かく怖づる人をば、「けしからず放俗なり」とて、いと眉黑にてなむ睨み給ひけるに、いとゞ心地なむ惑ひける。

親たちは、「いと怪しく樣異におはすることぞ」と思しけれど、「思し取りたる事ぞあらむや。怪しき事ぞ」と思ひて、聞ゆる事は、深くさからひ給へば、「いとぞかしこきや」と、これをもいと恥しと思したり。 さはありとも、「音聞きあやしや。人はみめをかしき事をこそ好むなれ、むくつけげなる鳥毛蟲を興ずなると、世の人の聞かむも、いと怪し」 と聞え給へば、「苦しからず。萬の事どもを尋ねて、末を見ればこそ事はゆゑあれ。いとをさなき事なり。鳥毛蟲の蝶とはなるなり。」 そのさまのなり出づるを、取り出でて見せ給へり。「衣とて人の著るもの、蠶のまだ羽つかぬにし出だし、蝶になりぬれば、いと果てにて、あだになりぬるをや」と宣ふに、言ひ返すべうもあらず、あさまし。さすがに、親たちにも差向ひ給はず、「鬼と女とは、人に見えぬぞよき。」と案じ給へり。母屋の簾を少し捲き上げて、几帳隔てて、かく賢しく言ひ出し給ふなりけり。

(文の現代語訳)

蝶を愛する姫君が住んでおられる隣に、按察使(あぜち)の大納言のお嬢さんが住んでらっしゃったが、その尋常ならず美しいさまに、両親の可愛がられること限りがなかった。この姫君がおっしゃることには、「人々が、花や蝶やともてはやすのはあさはかでおかしなことです。人には実というものがあり、何でも本地を訪ねるのが心がけのよいことなのです」。そういって、色々な蟲の恐ろしげなるのをとりあつめては、「これの成長するさまを見よう」と、さまざまな籠や箱にお入れになるのだった。中でも、「毛虫が心深い様子をしているのがすばらしい」といって、一日中、前髪を耳に挟んでは、毛虫を手のひらに乗せて見守りなさる。

若い侍女たちは恐れて逃げるので、取るに足りない男の子の物怖じしないのを召し寄せて、箱の中から蟲を取り出させては、その名を聞き、新しくて名前のない蟲には名前を付けて面白がられた。「ひとは何でも取り繕うのがよくない」と言って、眉毛を抜くことをせず、お歯黒も「うるさい、きたない」といってお付けにならない。白い歯をむき出して笑いながら、この虫どもを朝夕愛された。人々が怖がって逃げるので、その姫君は、たいそうひどく罵られるのだった。そうしてそのように怖がる人を、「とんでもない、下品だ」といって、黒いまゆ毛で睨みなさるので、人々は生きた心地がしないのだった。

親たちは、「あやしく、風変わりなことだ」と思われた。そこで、「なにか深いわけがあるのだろうが、それにしてもおかしなことだ」と思って、姫君にあれこれと言うのだが、かえって強く反発されるので、「これはたいへんなことだ」と、姫君の様子を大変恥ずかしく思われるのだった。そうは言っても、「外聞が悪い、世の中の人はきちんとしたを人を好むものです、恐ろしげな毛虫に夢中になっているなどと噂が立てば、大変なことです」と姫君を諭すと、「へっちゃらです、どんなことをでも、末を見てその源を思うのが肝心です。あなたがたのおっしゃることは子供じみています。毛虫が蝶になるのですよ」と言いながら、その毛虫が蝶になる様子を、取り出して見せてあげたのであった。そして、「衣という人の着るものも、蚕がまだ羽のつかないうちに糸にするからできるのです、蝶になってしまっては、もうおしまいで、無駄になってしまうのです」とおっしゃるので、親たちも返事のしようがなかったのだった。あさましいことである。けれども姫も、さすがに面と向かっては親たちに反抗もできかね、「鬼と女とは、人に見えないのがいい」と考えつつ、母屋の簾をすこし巻き上げて、親と几帳を隔てて、こんなふうに賢そうに言い出すのであった。

(解説と鑑賞)

「蟲愛づる姫君」は、「堤中納言物語」の中で最も人気の高い段で、「堤中納言」といえば、真っ先に挙げられる話だ。題名にあるとおり、虫が大好きな姫君の、風変わりな暮らしを、ユーモラスに描いたものだ。

普通の姫君は、蝶や花を愛づるものだが、この姫は蝶になる前の虫に関心がある。それをはしたないと言って、周りの人がたしなめるが、一向に聞く気配がない。むしろ、物事はその源を知る事こそ肝心で、虫は蝶の源なのだから、まず虫に眼を向けるのは当然だと開き直る。

そんな変わり者の姫君に興味を覚えた御曹司が、女装して偵察にやってくる。そして、立蔀の影から姫の様子を盗み見ていると、中々かわいらしい様子に心を動かされる。しかし、どんなに可愛い姿であっても、心がねじくれていてはしょうがないと言って、それ以上の深入りを避ける、といった内容の話だ。

この段は、蝶を愛でる普通の女の子の隣りに、虫を愛でる変った女の子が暮らしていることを紹介するところだ。その変った趣味をまわりから批判されて、それに口答えする女の子の様子がユーモラスに描かれている。


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