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花櫻折る中将(一):堤中納言物語


月にはかられて、夜深く起きにけるも、思ふらむ所いとほしけれど、立ち歸らむも遠きほどなれば、やうやう行くに、小家などに例音なふものも聞えず。隈なき月に、ところどころの花の木どもも、偏に混ひぬべく霞みたり。今少し過ぎて、見つる所よりもおもしろく、過ぎ難き心地して、
  そなたへと行きもやられず花櫻匂ふ木陰に立ちよられつゝ
とうち誦じて、「早くこゝにもの言ひし人あり」と、思ひ出でて立ち休らふに、築地の崩れより、白き物の、いたう咳ぶきつゝ出づめり。

哀れげに荒れ、人氣なき處なれば、ここかしこ覗けど咎むる人なし。この、ありつる者のかへるを喚びて、 「ここに住み給ひし人は、いまだおはすや。『やま人に、物聞えむといふ人あり』とものせよ」 といへば、 「その御方は、此所にもおはしまさず。何とかいふ處になむ住ませ給ふ」 と聞えつれば、「あはれの事や。尼などにやなりたるらむ」と後めたくて、 「かの光遠に逢はじや」 など、微笑みて宣ふ程に、妻戸をやはら掻い放つ音すなり。

をのこども少しやりて、透垣のつらなるむら薄の繁き下に隱れて見れば、 「少納言の君こそ。明けやしぬらむ。出でて見給へ」 といふ。よき程なる童の、容態をかしげなる、いたう萎え過ぎて、宿直姿なる、蘇芳にやあらむ、艷やかなる袙に、うちすきたる髪の裾、小袿に映えてなまめかし。

月の明き方に、扇をさし隱して、 「月と花とを」 と口誦さみて、花の方へ歩み來るに、驚かさまほしけれど、暫し見れば、おとなしき人の、 「すゑみつはなどか今まで起きぬぞ。辨の君こそ、ここなりつる。參り給へ。」 といふは、物へ詣づるなるべし。ありつる童は留るなるべし。 「侘しくこそ覺ゆれ。さはれ、唯御供に參りて、近からむ所に居て、御社みやしろへは參らじ。」 などいへば、 「物ぐるほしや。」 などいふ。皆仕立てて、五六人ぞある。下るゝ程もいと惱しげに、「これぞ主なるらむ。」と見ゆるを、よく見れば、衣脱ぎかけたる容態、さゝやかにいみじう子めいたり。物言ひたるも、らうたきものの、ゆゑゆゑしく聞ゆ。「嬉しくも見つるかな。」と思ふに、やうやう明くれば歸り給ひぬ。

(文の現代語訳)

月の光に騙されて、夜深く起きてしまったが、残してきた女が自分を思っている事だろうと可哀そうになった。だが、戻るには遠い距離なので、ぶらぶら歩いて行くと、あたりの家には家事をする音もまだ聞こえない。隈なき月の光に、ところどころ桜の木の花がまじりあって、霞んでいるように見える。もう少し進んでいくと、もっと面白い眺めが現れて、過ごしがたい気持ちになった。そこで、
  帰る方向へ行くこともならず、こうして桜の花の匂う木陰に立ちどまっていることよ
こう歌いながら、昔ここに恋人が住んでいたなあ、と思い出しながら安らっていると、築地の崩れより、白い装束を着た人が、たいそう咳き込みつつ出て来た様子である。

哀れなほどに荒れ果て、人気もないところなので、あちこち覗きこんでも、咎める人がいない。そこで、さきほどの白装束の人が戻ってくるところを呼び止め、「ここに住んでいた人は、まだいますか。その方に、話しかけたいと言う杣人がいると伝えてくれ」と言ったところ、「そのお方なら、ここには住んでいらっしゃいません。なんとかいうところに住んでおられます」と返事が返ってきたので、「可哀そうなことだ、尼にでもなったのだろうか」と気の毒な気持ちになった。さらに、「お前は、あの光遠に逢いたくないかい?」と、笑いながら話しかけたところ、妻戸をやおら開け放つ音がした。

従者の者たちを先に返して、透垣の連なるところの薄の蔭に隠れて見ていると、誰かが、「少納言の君、夜が明けたかしら、出て確かめて下さい」と言うのが聞える。声をかけられたものは、ちょうどよい年恰好の女童で、姿形すぐれ、くしゃくしゃになった装束の宿直姿をし、蘇芳色だろうか、つややかな袙を着ている。よく梳いた髪の裾が、小袿に映えてなまめかしい。

月の明るい方向に向かって扇をかざして顔を隠し、「月と花とを」と口ずさみながら、花の方へと歩み来て、女たちを驚かしたく思ったものの、そのまましばし見ていると、大人びた人が、「末光はなぜまだ起きないのですか。あら、弁の君さん、ここにいたのですね、こちらへ来てください」などと言っている。どこかへお参りに行くところらしい。先ほどの白装束の女童は、留守番のようだ。その女童が、「一人ではさびしうございます。お供させてください、近いところに控えて、お宮には参りませんから」などと言うので、大人びた人が「馬鹿馬鹿しい」などと言う。身支度を整えた人の数は五六人である。出発しようとして階段を苦しげに下りてくる人がある。「これが主人の姫君だろう」と思ってよく見ると、衣を脱ぎかけた姿が、小柄でたいへん子供っぽい。話し方も、かわいらしいと同時に気品があるように聞こえる。「嬉しくも見たものかな」と思っている間に、だんだん夜が明けて来たので、中将はお帰りになったのだった。

(解説と鑑賞)

題名にある「花櫻折る」には、文字通りの意味の外に、若い女を手に入れるという意味もある。桜の花の咲き乱れる頃に、主人公の貴公子が、ふと忍び見た姫君に懸想をし、彼女を盗みだしたはいいものの、実は盗み出した女は、うら若い乙女ではなく、頭を丸めた老女だった、という何とも笑えない話である。

この段では、貴公子の中将が、女のもとに通って行った帰りがけに、昔の女の住んでいた家を通りがかり、その女の消息を尋ねたところ、その女は別の所に移り住み、今はさる姫君が住んでいるということがわかる。

そこで中将が、邸の内部を覗き見ていると、姫君らしい人が現れ、従者たちと何やら語り合っているのが見える。これからどこぞやへお参りに行く様子である。その姫君を見た中将は、自分の好みにあう女性だと、一目惚れしてしまうのだ。

なお、中将が女童に向って、「かの光遠に逢はじや」という場面がいきなり出て来るが、実はこの女童は光遠と好い仲であることが後でわかる。しかし、この場面ではまだそのことはわかっていないわけで、ここでいきなり出て来るのは不可解な気がする。


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