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鈴木大拙の涅槃観


小乗、大乗を問わず、仏教全体に共通することとして、涅槃を最終的目的とする考えがある。涅槃というのは、悟りを通じて輪廻から解放されることである。輪廻とは、仏教に特徴的な考え方で、この世の生き物はほぼ永遠に輪廻転生、つまりたえざる生成消滅の運命につながれているとする考えだ。仏教は、生きることを苦しみと捉えるから、輪廻転生から逃れられないというのは、ほぼ永遠に苦しみに繋縛されていることを意味する。この繋縛から逃れるためには、悟りを得て涅槃の境地に達し、そのことで輪廻転生から解放されることが必要である、と考えるのである。涅槃とはだから、あらためていうと、輪廻転生から離脱して、永遠のやすらぎを得ることだということになる。ところが鈴木大拙の涅槃観は、それとはだいぶ違った内容のものとなっている。

大拙は、涅槃を輪廻転生からの離脱だとする考えに異議を唱える。そういう考えは、仏教の母胎となったインド土着宗教の考え方であって、仏教そのものには、当初からなかった。つまり釈迦自身もそのようには考えていなかった。そう大拙は断言するのだ。その上で、仏教において涅槃がどのように考えられて来たかについて、縷々説明するわけだが、その説明にはかなりな無理があるように思われる。第一、大拙は釈迦自身が、涅槃を輪廻転生からの開放とは考えていなかったというが、それは真実とはいえない。小乗仏教が涅槃を、輪廻転生からの開放ととらえていることは疑いないところだし、そういう考え方が釈迦にもとづいていることも明らかだといえる。大乗仏教が考える涅槃にもしそれとは違った考え方が含まれているとしたら、それは釈迦の始めた本来の仏教から逸脱したものだといわねばならない。実際、大乗仏教にはそういう面があることは否めない。そこをとらえて佐々木閑などは、大乗仏教は釈迦の仏教とは異なったものだと断言しているくらいである。

その大乗仏教においてさえも、涅槃は、基本的には輪廻転生からの離脱と考えられているのではないか。輪廻から解放されて、永遠に平安の境地に入ること、それが涅槃だと、いまでもほとんどの仏教徒は考えているのではないか。だからこそ、涅槃を死と同一視するのではないか。仏教美術では、涅槃像は釈迦入滅の様子であらわされる。釈迦の入滅とは、輪廻転生から離脱して、永遠の無あるいは空となることを意味している。つまり涅槃とは、一切の存在からの開放という意味で、無に溶け込むことだと考えられてきたのである。

しかし大拙は、涅槃を無とか空と同一視するのは、西洋の仏教批判に惑わされた考え方だといって、それを強く否定する。たしかに大乗仏教にも、涅槃を輪廻からの離脱と捉えているものもある。大乗仏教とは、一枚岩のように一様なものではなく、多くの考え方を許容するところがあるので、そのような考えが紛れ込んだのである。しかしそれを以て大乗仏教とその涅槃観とを代表させるわけにはいかない。そういって大拙は、涅槃についての捉え方を、従来の常識的なとらえ方とは異なった方向に導こうとするのである。

大拙は、大乗仏教における涅槃の概念を四つに分類する。これは通常の大乗仏教における涅槃観に大拙特有の涅槃観を加味した分類である。

第一は法身と同義語としての絶対的な涅槃。この場合に大拙が法身といっているのは、宇宙の根本原理というような意味であり、その根本原理と一体化することが涅槃ということになる。これは法身についての大拙の独特の解釈を前提にしたもので、もしも法身を、一般的な理解のとおり、世界の存在そのものと捉えるならば、涅槃は世界そのものと同義だということになって、やや不都合な事態に陥る(もっとも大拙がそれを不都合と考えていないことは、後で触れる)。

第二は有余涅槃、これはなんらかの残渣を伴なう涅槃であり、いまだ輪廻から完全に脱していない涅槃をさす。第三は無余涅槃、これは残渣のない涅槃、すなわち輪廻から完全に脱した涅槃である。西洋人が仏教の涅槃として捉えたのはこのタイプの涅槃である。この涅槃では、輪廻を脱して永遠の空虚に入ることがイメージされている。

第四は無住処涅槃、住処を持たない涅槃であるが、その内実は、第一のタイプの法身と同義語としての涅槃とほぼ同じだと考えられる。内容はほとんど同じで、完全度において違いがあるということのようである(大拙の解釈に従えば)。ともあれ、大乗仏教の涅槃には、これら四つのタイプがあるわけだが、そのうち、もっとも価値が高いのは第四のタイプの涅槃である。それに続いて、第一のタイプの涅槃ということになろう。どちらも、涅槃を法身と同じものと考えている。つまり、大拙の考えた法身、すなわち宇宙の根本原理と一体化することが涅槃だということになる。そのような涅槃は、通常の捉え方とは違って、輪廻転生を超越したものとはされない。むしろその反対に、輪廻に内在したものだということになる。なぜなら、涅槃を法身と同義とすれば、涅槃が輪廻を超越したというわけにはいかない。世界に内在する原理たる法身は輪廻の内部にとどまるわけだからである。

実際大拙は、涅槃と輪廻とは一体であるといい、涅槃は俗世の外部に求められるべきものではないと言っている。つまり涅槃は現世の中にあるというのである。大拙は言う、「涅槃というものは俗世間のただ中において求められるべきものである」。また、こうも言う、「大乗の涅槃というものは生の根絶ではなく生に覚醒すること、つまり人間としての熱情や欲求を破棄するのではなく、それを浄化し高めていくことなのである。この永遠なる輪廻の世界は、邪悪なるものが跋扈する場として忌避されるべきところではなく、普遍的な幸福を目指して、我々が持つすべての精神的可能性と力とを展開することができるよう、我々に常に機会を与え続けてくれる場としてみなされるべきものである」

涅槃についてのこうした大拙の考えが、大乗仏教の本道に立ったものだということは、どうもできそうにない。こういう考え方が、仏教思想として成り立つのかどうかは別問題として、これが大拙に固有の考えであることは間違いないようだ。大拙がなぜ、そのような考え方をとるに至ったか、それはそれで興味ある事柄である。おそらく、浄土真宗への大拙の親近感があって、それが涅槃を現世において実現しようとする動機をもたらしたのではないか。



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