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鈴木大拙の大乗仏教論


「大乗仏教概論」は、欧米人を対象として書いたということもあり、大乗仏教をキリスト教と比較しながら解説している。そうすることで、宗教としての大乗仏教の特色をよく理解してもらえると思ったからだろう。キリスト教といえば、神を中心とした宗教である。それにイエス・キリストがからみ、更にキリスト教会の存在が絡んで、いわゆる三位一体説が確立された。キリスト教の教義は、この三位一体説によって代表されるといってもよい。そこで大拙は、仏教にも三位一体説と似たようなものがあることを指摘して、欧米人の仏教理解を促そうというわけなのである。

三位一体説とは、神と子と精霊についての教えである。神は人類を救済するために、地上にイエス・キリストを遣わした。人類はキリストによる福音を通じて救済されることとなった。しかしキリストが地上にいたのは一時のことであって、キリストの死後神の福音を人類に伝えるものが別に必要となった。その役目を精霊が果たしている。とはいっても霊魂のようなものを想定しているわけではない。現実の教会がその役目を果たしているのである。キリスト存命中はキリスト自らが、キリストの死後は教会が、それぞれ神の福音を人類に伝えている、というのが三味一体説の要点である。

キリスト教における神のようなものは、仏教にはないと大拙は言う。仏教徒はキリスト教徒の言うような神を軽蔑しているというのである。「たいていの仏教徒にとって、その名(神)は不快なものである。特に不快に感じるのは、無から世界を創り出し、人間を没落させ、そのことで良心の呵責を感じて、堕落した者たちを救うために一人息子を送って寄こした。そういう者として大衆が考えている場合である」

キリスト教の神に相当するものを、仏教では法身という。法身仏あるいは毘盧遮那仏としてイメージされることもある。この法身を西洋では法の身体と訳すのが普通だが、それでは法身の本質的な意味は理解できない。法には法則とか教義という意味の他に、事物とか存在とかいう意味もある。一方身のほうは、個々人の身体という意味のほかに、体系とか統一体といった意味もある。このことから法身とは、事物の統合体、あるいは宇宙的統一性の原理を意味するとも言える。そうした意味での法身が、仏教徒の考える神性だと大拙は言うのである。したがって大拙の言う法身は、廬舎那仏におけるような具体的なイメージを伴なうこともあるが、本質的には、抽象的な原理というべきものなのである。しかも世界内在的な原理ということだ。そこは、超越神としての人格的な神を考えるキリスト教とは根本的な違いがある。

ともあれ大拙は、この法身を中心として、仏教にもキリスト教における三位一体説と似たようなものが指摘できると言う。それを大拙は三身説と言っている。三身とは、法身、応身、報身である。法身は宇宙の神性をあらわし、応身はその神性が釈迦牟尼という形で出現したものをいい、報身は大乗仏教をいろどる諸仏をさす。キリスト教の三位一体説と比較すれば、法身が神に、応神がキリストに、報身が精霊に相当する。こう言われると、法身と応神とはイメージしやすいが、報身はちょっとわかりづらい。仏教の諸仏と精霊(実際にはキリスト教会)では、イメージが全く違っており、比較の手がかりがないからだ。それでも三身説を三位一体と比較する形で持ち出すのは、西洋人に向って仏教をわかりやすく説明したいとの思いからだろう。

面白いことに、大拙は、キリスト教を仏教に取り込むような形で説明している。大乗仏教では、釈迦牟尼は法身が顕現したものだと考えるのだが、法身は釈迦牟尼以外にも多くの諸仏として顕現する。そうした諸仏のなかにキリストも含まれると言うのである。そうした考えに立てば、キリスト教は仏教のひとつの亜流というようなことになる。そういうことを言われれば、キリスト教徒としては見過ごせないだろう。実際大拙はキリスト教徒の学者から手厳しい批判を受けたのだが、そうした批判の殆どは、大拙のキリスト教を見下すような姿勢に反発したものだったと考えられるのである。

キリストを法身の顕現したものだとするのは、それは報身としてであった。報身の一つの例としてキリストがあげられるというのは、法身の解釈が一様でないからだと大拙は考えているようである。報身には色々な解釈がある。だからキリストを報身の一例として含むような芸当も可能なのだというわけであろう。報身の解釈として、大拙は無着の「摂大乗論」を取り上げるが、それには、報身は阿頼耶識すなわち一切如来蔵が創り出すものであるという解釈がなされている。ここで言われている阿頼耶識とは、客観的なものをさしているとしなければつじつまが合わないだろう。というのも阿頼耶識というのは、唯識の考えでは、個人の心理状態を説明するための概念であって、客観的な原理を説明するものではないからだ。そこをプサンなどは強く批判するわけだが、大拙としては、個人と宇宙とは、真如を通じてつながっており、したがって同じものだと考えているので、あまり矛盾は感じないということだろう。

ともあれ、法身、応身、報身の三身説は、大乗起信論のなかで言及されているものだ。だから大乗仏教全体を代表するような考えとはいえない。しかも大乗起信論における三身説の解説はごく簡単なものである。それを以て、キリスト教における三位一体説に対抗するような議論を展開するのは、無理筋といえるかもしれない。



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