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鈴木大拙「大乗仏教概論」について


「大乗仏教概論」は鈴木大拙の処女作である。大拙はこれを英語で書いた。当然欧米人を読者として想定している。その為か非常に論争的である。この本の中で大拙は、キリスト教圏の人々は仏教を誤解していると何度も書いているし、仏教はキリスト教に比べ、宗教として遜色がない、むしろ宗教としての純粋度は仏教のほうが高いと言っている。要するにキリスト教圏の人々に仏教を正しく理解してもらいたいと願って、この本を書いたということだ。単なる研究書ではない。大拙なりの伝道の書と言ってよいほどだ。

ところがこの本を大拙は、やがて封印してしまう。英文原書の再版を拒絶し、自分の死後の刊行も禁止した。また日本語への翻訳も禁止した。もっともその禁止は無視され、原著の再版が、大拙の生前に海賊出版のかたちでなされた。また大拙の死後になってからは、日本語への翻訳もなされた。翻訳したのは仏教研究者の佐々木閑である。いまでは岩波文庫に収められているので、たやすく入手できる。なかなかわかりやすい、すぐれた翻訳だと思う。小生もそれを読んだ次第だ。

大拙がこの本を封印した理由は明らかではないが、翻訳者の佐々木閑が、かれなりに推測している。かれはその推測を訳者後記の形で紹介しているが、それによれば、この本はそれなりの反響を呼び、また批判もあったが、中でもベルギーの仏教研究者ルイ・ド・ラ・ヴァレー・プサンによる批判が、大拙にはこたえ、自分の未熟さを思い知らされて、この本を封印する決意をさせたというのである。

プサンによる批判とは概ね次のような内容である。大拙が語る大乗仏教というのは、ヒンドゥー教を代表する哲学であるヴェーダーンタ哲学やドイツ哲学に染まったもので、大乗仏教本来の姿ではない。大乗仏教本来の姿は、多様な思想を含んだもので、大拙が主張するようなものに一元化することはできない。大乗仏教には確かにヴェーダーンタ的な要素もあるが、そればかりが大乗仏教の思想ではない。だから大乗仏教をヴェーダーンタ哲学と同一視することはできない。

また、大拙は「法身を宇宙の究極原理、移ろいゆく諸現象の存在論的基体であると考えるが、これは大乗仏教の考えではない・・・菩提心に関する鈴木の理解も間違っている。菩提心とは、菩提すなわち悟りを求める心、仏になりたいと望む心を意味する。鈴木がいうような、『法身が人の心に映し出されたものとしての知的心』、などという解釈は存在しない。阿耨多羅三藐三菩提についても、大拙は『最高にして最も完全な智慧の心』と説明するが、これも間違いで、正しい意味は『完全な仏になりたいと望む心』である」。そうプサンは言って、大拙を厳しく批判する。それに加えて、大拙のサンスクリット理解のいいかげんさまで指摘したのである。これが大拙には相当応えて、自分の未熟さを思い知らされ、この本を封印する気になったのだろうと、佐々木は推測するのである。

プサンの批判はそれとして、大拙が大乗仏教をこの本にあるような形で理解したことには、それなりの理由があると佐々木は言う。大拙が大乗仏教の特質として説明している思想は、決して大乗仏教全体に適用できるものではなく、あえて対応を探すとすれば、ヒンドゥー化の進んだ後期密教にのみ見出しうるものであるが、そうした思想を大拙は、「大乗起信論」をもとに練り上げた。大拙は「大乗起信論」を、最も古い大乗の思想書であって、そこから後の大乗思想が様々に展開したと考えており、「大乗起信論」の思想を以て、大乗の思想を代表させた。しかし、「大乗起信論」は、五世紀になって、しかも中国人によって書かれたということが明らかとなる中で、大拙の大乗思想についての前提は根本的に揺らいだ。したがって、プサンが言うように、大拙の大乗思想論はかなり一面的だと言える。もっとも、そういう事情が明らかになったのは、この本の刊行後のことであるから、大拙をあまり責めることもフェアではないと佐々木は言っている。それにしても大拙には、偏狭な小乗仏教批判とか、唯識でいうところのアラヤ識を宇宙的如来蔵とするところなど、かなりの逸脱も指摘できるとしている。

それにしても、大拙の大乗思想論には、日本的な仏教観が色濃く反映していると佐々木は言う。日本的な仏教は、まさに日本的であって、それをもって仏教を代表させることはできないが、それなりの存在価値を持っている。大拙の大乗仏教論も、それでもって大乗仏教全体を代表させるわけにはいかないが、しかしそれなりの存在価値を認めてやってもいいのではないか。それをいわば大拙経と名づければ、さまざまに展開してきた大乗仏教の一つのあり方だとも言える。そう言って佐々木は、大拙の大乗仏教論にも、それなりの位置づけを施しているわけである。

こういう佐々木の意見に対して、文庫版の解説を書いた石井修道は、大拙の仏教思想は、大拙個人の達成ではなく、日本の仏教界の思想的な発展を反映したものだと指摘している。その上で、もし佐々木のいうように大拙経というものを認めるならば、それを大拙一人に帰するのではなく、日本仏教の思想的な達成を含めて考えるべきだと指摘するのである。

なお、大拙はその後、この本におけるような論争的な態度を改め、キリスト教的なものを認めたうえで、日本的なオリエンタリズムを加えた形で仏教の思想を説いた(日本的霊性論など)。それがキリスト教圏の人びとに受け入れられて、仏教とりわけ禅宗を、いわば嗜好品として受容するような文化を普及させたと佐々木は総括している。


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