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唯識二十論


「唯識二十論」はヴァスパンドゥ(世親)の主著の一つで、唯識派の基本思想を述べたものである。中観派と比較した唯識派の思想の根本的な特徴は、中観派が自我と対象を含めた現象的世界のすべてについて、その実在性を否定し、すべては空であると主張したのに対して、唯識派は、対象的な世界は心から生じる表象であって、それ自体としては実在しない、だがそれらの原因となる心は存在すると主張するところにある。心の存在にもとづいて対照的な世界を説明することから、唯心論とも言える。唯心論といえばイギリスの哲学者バークリーが思い浮かぶが、唯識派の思想は、西洋の学者によってバークリーの唯心論と比較されることが多いのである。

タイトルが示すとおり、約二十の詩頌とそれへのヴァスパンドゥ自身の注釈からなる。主張するところは、この世界がただ表象に過ぎないこと、その表象は心によって生み出されるということである。心は表層意識に現われて来る部分だけではなく、その深層に別の領域が存在している。その領域の働きが原因となって、表層部分における表象が生じて来ると考える。しかしてその表象は連続した現象ではなく、一瞬ごとに消滅しては、またあらたに生まれるというプロセスをとる。これを大乗仏教では刹那滅というが、この刹那滅を阿頼耶識に関連させて説くところが唯識思想の大きな特徴である。だが、この「唯識二十論」には、刹那滅の考えは言及されているものの、それが阿頼耶識によって起こるとまでは明言されていない。

論述の進め方は、実在論との論争の形をとっている。その点では、中観派の帰謬論証法と同じ方法を用いているわけである。中観派の得意とする帰謬論証法を用いて実在論者の主張を批判するところが、この著述の面白いところだ。中観派はその方法を用いて、自我の実在をも否定したわけだが、ヴァスパンドゥは、自我すなわち心の存在までは否定しないのである。もっとも自我は、通常の意味で捉えられているわけではない。通常の意味では、自我という本体があって、それが表象を生み出すというふうに考えるわけだが、唯識派は、表象と本体とを区別しない。表象そのものが自我としての心なのである。

表象が生じるについては原因がある。この原因の捉え方が唯識派の最大の特徴となる。その原因を種子と呼ぶ。この種子がもとになって表象が生じるというふうに捉えるのである。その種子はどのようにして生まれるのか。それはある時期における表象の残差というか、経験の余韻が、種子となって次の表象乃至経験を生むというふうに唯識派は捉える。この種子のことを熏習という。薫重は阿頼耶識という心の一領域に蓄えられ、それがもとになって表象世界が成立する。しかしてこの世界は、先述のとおり、連続したものではなく、一瞬ごとに断絶している。断絶はしているが、種子の性格にもとづいて、連続した経験のように見えるのである。

それゆえ唯識派は、阿頼耶識を基盤にして、心の存在を認めているように見える。実際この阿頼耶識は、ある個人が死滅しても生き残るとされる。個人はさまざまな世界を輪廻転生し、生々流転を繰り返すと捉えるのが仏教の基本的な思想であるが、その輪廻の担い手が、唯識派にとっては阿頼耶識なのである。



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