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中辺分別論:唯識派の三性説


中辺分別論は、唯識派の祖であるアサンガ(無着)がマイトレーヤ(弥勒菩薩)の教えを書き留めたものに、アサンガの弟ヴァスパンドウ(世親)が注釈を施したものであるとされる。マイトレーヤは実在の人物とは思われないので、実質的にはアサンガとヴァスパンドゥの共作なのだろう。唯識派の根本思想の一つ、三性説を詳しく述べたものだ。

三性説とは、認識論と存在論を一体化したようなもので、自我とその対象を含む一切の存在者の存在のあり方、およびその存在のあり方の把握についての議論である。性という言葉は、ものの本性とか本体を意味し、自性と呼ばれる。また存在形態と訳されることもある。存在形態といったほうが、わかりやすいかもしれない。

全体は七章からなる。「相と、障害と、真実と、対治を習得することと、その習得の階位と、果を得ることと、およびこのうえのない乗物」という七つのことがらについて説いている。そのうち第一章の相、第三章の真実の部分を取り出して訳したものが、中公版「世界の名著2大乗仏典」(長尾雅人編訳)に収められている。これをテクストに用いながら、唯識派の三性説について考察してみたい。

三性は、三種の存在形態とも訳されるが、内容としては、遍計所執性(妄想されたもの)、依他起性(他によるもの)、円成実性(完成されたもの)の三つからなる。妄想されたものとは、心が妄想したもので、実在しないということをあらわし、他によるものとは、縁によって生ずるということをあらわすが、具体的に言うと、心の深層にあるアーラヤ識が生み出すということである。完成されたものとは、真如とか涅槃というものをさすが、具体的に言うと、他に依存する存在形態が妄想された存在形態をつねに離れていることを意味する。言い換えれば、アーラヤ識の生み出したものが、単なる妄想ではなく、存在の根拠をもつというような意味である。

三性についてのこの説明がどういうことかというと、存在とは基本的には心が生み出したもので、それ自体で実在性をもつものではないということだ。それは基本的には、心の深層にあるアーラヤ識の生み出したものである。アーラヤ識の生み出したものであるから、心の産物ということになる。だからそれ自体としての実在性は主張できない。しかし全く実在していないということでもない。アーラヤ識を包み込んだ心の働き自体は実在している。でなければ遍計所執性としての存在形態も現われようがないからだ。

存在をこのように捉える見方の根底にあるのは、虚妄なる分別という考えである。虚妄なる分別というのは、我々の認識の働き方を特徴づけた言葉である。我々の認識は、主観と客観とを対立させるとともに、対象を分節することで具体的な認識をするわけであるが。それは心の分別の働きによるもので、実在性は主張できないというのである。われわれが客観世界に存在すると思い込んでいるものは、実は自分自身の心の内容が夢のように現れているだけで、客観的に存在しているわけではない。つまり虚妄なる分別の仕業というわけである。

中辺分別論は、この虚妄なる分別についての説明から始まっている。曰く、「虚妄なる分別はある。そこに二つのものは存在しない。しかし空性が存在し、その(空性の)中にまた、かれ(すなわち虚妄なる分別)が存在する」と。

ヴァスパンドゥの注釈によれば、二つのものとは、知られるものと知るものとであり、それらは究極的には実在しない。空性とは、あるものがある場所にないとき、ある場所はあるものについて空である、と言われるように、存在の否定をあらわす。これを踏まえて、この詩頌を解釈すると次のようになろう。

虚妄なる分別というものは、われわれの意識の中ではたしかに存在している。その場合に知るもの(主体)と知られるもの(客体)とは実在しない。だから、知るものと知られるものについて、虚妄なる分別は空である。このように、知るものと知られるものの実在性は否定されるにかかわらず、虚妄なる分別は心の状態として存在している。それゆえ、その空性の中に虚妄なる分別が存在すると言われるのである。

上の詩頌に続けて次の詩頌が掲げられる。「それゆえに、すべてのものは空でもなく、空でないものでもないと言われる。有であるから、無であるから、また有であるからである。そしてそれが中道である」

これについて、ヴァスパンドゥは次のように注釈している。「空でもなく」というのは、虚妄なる分別があるという点で空でもないということをいい、「空でないのでもない」とは、知られるものと知るものとが空であることをいう。また、「有であるから」とは、虚妄なる分別は存在することをいい、「無であるから」とは、知るものと知られるものとが無であることをいい、「また有であるから」とは、虚妄なる分別の中に空性が有であり、その空性の中に虚妄なる分別が有であることをいう。

これを踏まえてこの詩頌を解釈すると次のようになろう。すべてのものは、単に有と見るべきでも、単に無と見るべきでもなく、また単に空と見るべきでも、単に空でないと見るべきでもないということになる。それが中道だというわけである。中辺分別論とは、有の偏見と無の偏見という両極端から、正しく分別することを目的とした論(中すなわち中正を辺すなわち両極端から分別する論)というわけなのである。

虚妄の分別論及びそれを踏まえた三性説は、中観派から唯識派を分け隔てる基本的な主張である。中観派は、意識の対象や意識の主体、それらを包み込んだ意識の働きそのものの実在性を否定して、すべては空だと言ったわけだが、ヴァスパンドゥに始まる唯識派は、世界の実在性は否定しつつも、意識の働きそのものの実在性は否定しない。かといって、意識が生み出すものの実在性は否定する。そこから空でもなく空でないものでもないといった、一見曖昧な主張が生まれてきたわけであろう。



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