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廻諍論を読む


「廻諍論」は、ナーガールジュナ(龍樹)の著作「論争の超越」の漢訳である。ナーガールジュナは中観派の創始者といわれ、般若経の空の思想を深化・発展させた。「廻諍論」は「中論」と並んでかれの代表作である。七十の詩頌とその解説からなっている。詩頌とは韻文であり、暗記しやすいように出来ているが、簡潔すぎてわかりにくいという短所がある。そこで解説が必要になるが、「廻諍論」ではそれを、ナーガールジュナ自身が行っている。

空の思想というのは、対象や自我に本体を認めず、(客観も主観も)すべてが空であると主張するものだ。それに対してインドの伝統哲学の代表であるニヤーヤ派や小乗仏教のアビダルマの思想は、対象や自我に本体を認める。本体あるいは実体とは、生成する現象の背後に、それをそのものたらしめている本質の存在を想定するものだ。これを実在論という。それをナーガールジュナは否定する。したがってナーガールジュナの言説は非常に論争的である。この「廻諍論」もまた論争の書としての性格をもっている。

前後二部からなっている。前半では実在論者たちの中観派への批判をとりあげ、後半ではそれに対する中観派の反論を展開する。前半は20、後半は50の、それぞれの詩頌とそれについての詳しい解説からなっている。前半の20の詩頌のうち、6番目までがニヤーヤ派の主張、それ以降がアビダルマの主張である。

まず、ニヤーヤ派の主張と、それへのナーガールジュナの反論をみてみよう。(以下テクストには中公版「世界の名著2大乗仏典」所収の「論争の超越」長尾雅人編訳、を用いる)

ニヤーヤ派は中観派を、実在論の立場から批判する。ニヤーヤ派は、あらゆるものには本体が存在すると考えるのであるが、中観派はそうではなく、どこにもいかなるものにも本体がないと考える。そこで言葉にも本体はないということになる。つまり言葉も空であるということになる。だが、もしそうなら、空である言葉によってすべてのものの本体が否定されることはない。空であるものが、つまり存在しないものが、あるものの存在を否定できるわけがないからである。そういうわけであるから、中観派の主張は成り立たないというのがニヤーヤ派の主張である。

それに対してナーガールジュナは次のように反論する。ニヤーヤ派の理屈は、空であることを存在しないことと同一視しているが、中観派の真意はそうではない。我々のいう空とは、ものが他によって存在することをさす。他による存在には本体はない。ところがニヤーヤ派は、空であることの意味をたしかめないで、わたしの言葉には本体がないから、つまり存在しないから、ものの本体を否定できないと言っている。しかしわたしの言葉は他によって存在しているのであるから、本体はもたず空ではあるが、すべてのものの本体を否定することはできるのである。

このやりとりを見ていると、ニヤーヤ派とナーガールジュナは、言葉の定義をめぐって一致していない。つまりお互い同じ言葉に違う意味を持たせているのである。ニヤーヤ派は空とは存在しないことだといい、ナーガールジュナは空とは他によって存在することだという。これでは議論がかみ合わないわけである。

他によって存在するとはどういうことか。それは、あらゆる物事にはかならず原因があるということである。原因があって、結果がある。その結果は因果関係という相対的な関係から生じてきたのであって、自分自身のうちから、自生的に生じたものではない。その自生的でないということを中観派は自性を持たないという。自性はまた本体とも言い換えられる。その本体を持たないことを、中観派は空というのである。空とはだから、あらゆるものを出来事の因果的な連鎖のなかで相対的に位置付ける思想と言ってよい。因果関係は仏教の用語では縁起という。空とは縁起の思想なのである。

議論は次に人間の認識をめぐるものへと移っていく。ニヤーヤ派は次のように批判する。ものを否定するためには、それをあらかじめ知覚・認識することが前提だが、知覚という認識方法も、中観派によれば空なのだから、ものを認識する人も空だということになり、したがってものを否定することはできない、と。これも、空を存在しないことだとする前提から出て来る主張であり、前の部分と同じような指摘がなされうる。しかしナーガールジュナは、その指摘を繰り返さないで、人間の認識についての議論に移っていくのである。

認識は、それ自体を確立させることもなく、他のものを確立させることもないというのが、ナーガールジュナの立場である。かなりわかりにくいのであるが、それ自体を確立させることはないという意味は、本体を持たないということであり、他のものを確立させることがないという意味は、認識は因果の結果であって、原因にはなりえないということのようである。

認識がそれ自体で成立するならば、認識の対象を必要としないことになる。自ら成立するとは、他を要しないことだからだ。しかしそのような認識は、いかなるものの認識でもない。そのような認識が何の役に立つのか。そう言ってナーガールジュナは、認識の独自性を否定する。一方、認識が他のものを確立させるとは、いいかえれば認識が対象によって成立することを意味する。しかしこれは、父親と子の関係と同様に、堂々巡りに陥る議論である。子は父親から生まれる一方、父親は子によって父親となる。それと同じように、認識が他の者を成立するのと他の者が認識を成立させるのと、どちらが先かという議論になる。それは生産的な議論ではない、というわけである。

以上、ニヤーヤ派との論争は、言葉の定義の違いなど、かなりな行き違いを抱えているといわざるを得ない。

ともあれ、この議論からは次のような結論が導き出される。認識は独立に成立するのでもなく、それ自身とは別個な認識によってでもなく、対象によってでもなく、あるいは偶然に原因なくして成立するものでもない。



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