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三界唯心:華厳経十地品


華厳経十地品は、華厳経の諸経典の中でもっとも古く成立したもので、もともと十地経という独立の経典であったものが、のちに華厳経の中に取り入れられたものである。菩薩が究極の悟りを経て成仏するまでの、修業の階梯について説いている。その階梯が十あることから十地といい、それについて説いた章であるから十地品と名づけられたわけである。

華厳経全体を通じての思想の特徴は性起説というものであり、それは我々凡夫がそのままに成仏しているということを意味するから、本来なら修行など必要ないということになる。厳しい修業を経て成仏するというのは、法華経の性具説の主張である。だから十地品は、法華経の性具説を想起させるのであるが、にもかかわらず、華厳経の核心的な思想を説いたものとされている。そこから、十地というのは、修業の階梯をあらわしたものではなく、凡夫から仏にいたるまでの、菩薩の各段階の状態をあらわしているという解釈もなされてきた。

ともあれ、十地品が提起している菩薩の修行の十段階を、上山春平の説明によりながら、考察してみたい。まず、十地の名称は次のとおりである。
 初 地 歓喜(発心の喜び)
 第二地 離垢(汚れの排除)
 第三地 明 (無常の省察)
 第四地 焔 (真理への熱意)
 第五地 難勝(真理の把握)
 第六地 現前(我執の滅却)
 第七地 遠行(強力な実践)
 第八地 不動(無為無欲の境地)
 第九地 善慧(解脱の知恵)
 第十地 法雲(無常の悟り)

()内の言葉は、上山が原文を読んで、その内容を簡略に説明したものである。悟りに向けての発心の境地を歓喜地とし、以下段階を踏みながら最終的な悟りに至る過程が十段階にわけて説かれているわけである。このように、悟りに向けての修行を段階的に説くのは、小乗仏教以来の伝統だと上山は考えている。小乗仏典には、そうした段階的な修業についての説教が多く見られるという。華厳経の入法界品(善財童子の話)も、そうした修行説話が形をかえて残ったものだと上山は考えているようだ。

これら十地のうち、第七地までの前半部分と第八地以降の後半部分との間には飛躍があると上山は言う。第七地以前は煩悩を完全に離脱していない。それに対して第八地以降は、煩悩を完全に脱却して悟りの境地に入ったことをあらわしている。もうすこし詳しく言うと、第一地で発心してから第六地まで修業を深め、十分に準備したうえで、第七地で悟りへの飛躍を行い、第八地以降はその悟りの境地が説かれていると言うのである。第七地が遠行と名づけられているのは、悟りの境地に向って飛躍することをあらわしている。その前段の第六地にいたって、悟りの準備が完成するという構成になっているわけだ。そしてその第六地で説かれるのが、三界唯心の思想なのである。この思想こそが、悟りに向って飛躍するための基本的な前提となるわけである。

三界とは、基本的な仏教用語の一つであり、欲界、色界、無色界のことをいい、要するに天上と地下を含めたすべての世界(輪廻の舞台)を意味する。五道とか五趣とか言い換えられることもある。その三界、すなわちあらゆる世界は、人間の心の産物だというのが三界唯心思想のポイントである。

第六現前地は、この三界唯心の思想を、次のように簡略に表現している。「この菩薩は十二因縁に従ひて、我無く、人無く、衆生無く、寿命なる者無く、作るものと作られるものとを離れ、主無くして衆の因縁に属す。かくの如くかんずる時に、空解脱門、現じて前にあり」。つまり現前とは三界唯心の思想があらわになるということを意味しているわけである。

第六現前地は、その最後につぎのような偈を掲げている。
 三界はただ貪心によって有りと了達し
 十二因縁は一心の中に有りと知る 
 かくの如くなれば即ち生死はただ心より起る
 心もし滅することを得ば生死も即ち滅するべし

華厳経におけるこうした唯心思想は、後に唯識派の心理学説と世界解釈に大きな影響を与えることになる。



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