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中道の思想:宝積経迦葉品


宝積経迦葉品で展開される中道の思想とは、即非の論理を深化・発展させたものである。即非の論理とは、鈴木大拙が金剛般若経の解説において使っている言葉で、大乗仏教独特の論理を指摘したものである。これを単純に定式化すると、「AはAではない、だからAである」というふうになる。「Aは非AであることでAである」とも言い換えられる。これは西洋的な形式論理の立場からは、矛盾率に抵触するものであって、ナンセンスでしかありえない。ところがそのナンセンスが、大乗仏教では真理なのである。

中道の思想はこの即非の論理を、もうちょっとわかりやすく解説したものと考えてよい。即非の論理は矛盾率を表に出すことで、形式論理、つまり常識の考え方に真っ向から対立することになる。それはそれで人間の思考を活発化する働きがないわけではないが、しかしやはり座りが悪いと言わねばならないだろう。そこでなるべく常識に近づけるという意図から、中道というものが考えられたのだと思う。

即非の論理は、Aは非Aであると言うことで矛盾率に真っ向から反するわけだが、中道はそれを避けた言い方をする。中道は、Aと非Aとの中間に真理はあるという言い方をするのである。ものごとというものは本来非常に複雑なもので、それを単純化して一面的に限定すると、その真のあり方が見えてこない。それをAだというのは一面的であり、非Aだというのも一面的である。真理はAと非Aとの中間にある、というのが中道の思想の内実なのである。

中道とは、存在(法)についての真実の観察であると言われる。西洋的な形式論理も、存在についての判断である。双方とも存在についての人間の観察あるいは判断を取りあげているわけである。しかしその取り上げ方が、かなり違う。西洋的な形式論理は、同一律を根底に置いた考えである。矛盾律や排中律は、同一律を別の言葉で言い換えたに過ぎない。しかして同一律とは、あるものをそのものたらしめている同一性に着目した考えである。それに対して中道の思想は、あるものをあるものとして限定しない、つまりそのものの同一性にこだわらないことを強調する考え方である。

お経は言う、「存在についての真実の観察とは、物体(色)について、恒常でもないとみる観察、無常でもないとみる観察である。(同じように)感受(受)について、想念(想)について、形成力(行)について、識知(識)について、恒常でもないとみる観察、無常でもないとみる観察である」と。つまり、あらゆる対象について、それを恒常でもなく無常でもないとみる観察が中道というわけである。言い換えれば、Aでもなく非Aでもないとみる観察、それが中道ということになる。

なぜ、そうなのか。ある対象について、それを恒常であるというのは一つの極端論(辺)であり、それを無常というのも、やはりもう一つの極端論だとお経は言う。真理はその二つの極端論の中間にある。それは、「形を持たないもの、見られないもの、あらわれ出ないもの、認知されないもの、基底のないもの、名づけられないもの」なのである。名づけられないものについて、それをAだとか非Aだとか限定して言うわけにはいかない、というのがこの主張の真意である。

以上は対象についての議論だが、主観すなわち自我についても同じような主張がなされる。お経は言う、「自我があるというならば、これは一つの極端論である。無我というならば、これももう一つの極端論である。(この)有我と無我の中正は、形をもたないもの、見られないもの、あらわれ出ないもの、認知されないもの、名づけられないものである」

同じようにして、すべての存在するものについて、それが「あるということ、これは一つの極端論であり、ないということ、これももう一つの極端論である」と言われる。すべての存在するものは、あるとも、ないとも、断定できない、というのが中道の思想なのである。存在するものは、ある時にはあり、別のあるときにはない、あったりなかったりする、それが存在するものの真のあり方なのだ、と言っているわけである。

こうした中道の考えに立てば、人間の迷いとか苦悩といったもの、つまり煩悩を克服することができる。お経は言う、「迷い(無明)を条件(縁)として生成のはたらき(行)がある。生成のはたらきを条件として識知がある。識知を条件として個体存在(名色)がある。個体存在を条件として六つの知覚の場(六処)がある。六つの知覚の場を条件として経験(蝕)がある。経験を条件として感受(受)がある。感受を条件として欲望(渇愛)がある。欲望を条件として(身体への)執着(取)がある。(身体への)執着を条件として生存(有)がある。生存を条件として誕生(生)がある。誕生を条件として老、死、苦悩、悲嘆、苦、憂悩、惑乱が起ってくる。このように、まったく苦悩のみのこの大きなかたまりが、集り起こるのである」。こうした考えは、生きていることそのものが、苦悩なのだと言っているように聞こえる。苦悩から脱するには、生きていることをやめねばならない、ということになる。生きているとは、輪廻の中にいることだから、生きることをやめるとは、輪廻から脱するということを意味する。

苦悩は迷いから生ずる。その迷いを滅すれば苦悩は寂滅する。迷いは無明といい、そこから脱却することを悟りというが、悟りとは明と言い換えられる。迷いの反対が悟りであり、その迷いが無明と言われるのだから、その反対の悟りは明と言われる道理である。しかして、「悟り(明)と迷い(無明)とは二つのものではなく、二つに区分されるべきものではない」。これはどういうことか。論理上は、Aと非Aとは二つの異なったものではないということを言っているようであるが、実質のうえでは、悟りは迷いを条件とし、迷いは悟りを条件としていると言っているように聞こえる。



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