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維摩経を読むその八:世尊とヴィマラキールティの対話


第十章以下は、舞台を世尊のいるアームラパーリーの園林に戻し、ヴィマラキールティが世尊と直接対話する様子を中心にして、仏法とは何かについて説く。そのやり取りは、逆説に満ちたもので、形式論理では説明できない。仏教独特のロジックが展開されるのである。そのロジックを鈴木大拙が「即非の論理」と名づけたことは、別稿で指摘したとおりである。

第十章は、漢訳では「菩薩行品」と呼ばれ、菩薩の解脱について説く。まず、ヴィマラキールティが、自分の邸に集まった大勢の人々や一切妙香世界から来た菩薩たちとともに、世尊のいるアームラパーリーの園林に移動する。その移動の仕方というのは、ヴィマラキールティが神通力を発揮して、集まっている人々を獅子座もろともに自分の右手の上に置き、世尊の前でそれらを降ろしたというものだった。ヴィマラキールティが並みの俗人ではなく、菩薩、それも如来の境地に近い菩薩であることを物語っているのであろう。

そこで、世尊とヴィマラキールティの間で対話が行われるわけであるが、最初の対話は菩薩の解脱をめぐるものであった。菩薩の解脱とは何か。世尊はそれを、有尽と無尽であると言う。しかして、有尽とは有為が滅尽すること、無尽とは無為に滅尽がないことだと言うのである。ここでいう有為とは、簡単に言えば、生成変化ということであり、無為はその逆に、生成変化を超えた寂静のことである。

有尽とは有為を滅尽することと言ったが、有為を滅尽するとはどういうことか。有為は生成変化という意味だから、それを滅尽するとは、生成変化を超越することだと思われがちだが、かならずしもそうではない。世尊の言葉で言えば、「大慈から後退せず、大非を捨てないことである。深い決意に由来する一切知の心を忘れず、人々を成熟させてあきることがない」ということである。生成変化する世界において、それを超越する心を以て、なお生成変化する世界に生きる人々の救済に努めるということなのだろう。それを世尊は、「法において精進し、有為を滅尽させない」と言っているが、このように、一方では有為を滅尽するといいながら、同時に有為を滅尽させないというのは、普通の形式論理では説明できないことである。

また、無尽とは無為に滅尽がないことだと言ったが、無為に滅尽がないとはどういうことか。無為は寂静という意味だから、それが滅尽しないとは、いつまでもその(寂静の)状態に固着するという意味になる。ところが世尊は、無為の中に固着しないと言う。つまり寂静にこだわることはしないというのである。これも、有為の場合と同様、形式論理では説明できないことである。何故なら、相互に矛盾することを言っているからである。

ところが仏教的なロジックにおいては、これは矛盾とは考えられない。世尊は、「菩薩は有為を滅尽させず、また無為において固着しない」とも言うのだが、そういうことで、生成変化する世界のうちに引き続き身を置いて、寂静の心を持ちながらも、それにこだわらずに、衆生の救済に努めるのが菩薩の道だと言っているわけである。

続く第十一章は、漢訳では「見阿閦仏品」と呼ばれる。阿閦仏とはアクショービャ如来(無動如来)のことである。そのアクショービャ如来が主催する世界を妙喜世界といって、理想的な仏国土とされるが、その仏国土からヴィマラキールティがこの娑婆世界にやってきたということが明らかにされる。何故ヴィマラキールティは、理想的な仏国土から、過失に満ちたこの娑婆世界にやってきたのか。それは太陽が闇を照らすように、妙喜世界の明るさを以てこの娑婆世界を照らすためだと説明される。

第十二章は、漢訳では法供養品と呼ばれ、財物ではなく法による供養があらゆる供養の中で最高の供養であると説く。法による供養とは何か。簡単に言うと、「無我を説き、衆生も、生命あるものも、個我もないと説く。それは空性、無相、無願、無作、無起の理をそなえ、菩薩の座を完成し、法輪を転じる」ことを内容とする。そうした経典を正しく説き、解釈し、考察し、正しい法をすべて統率することが法の供養である。

最後に、釈迦如来の入滅後に、釈迦の後継者としての弥勒如来の出現が預言される。この部分は、チベット訳では、第十二章のなかに収められているが、漢訳では「嘱累品」と題されて独立した章になっている。まず、世尊が菩薩の心掛けるべきことを示す。それは、さまざまな句や文字を信じるのではなく、法の甚深のあり方を忘れず、真実のあるがままを悟ることである。つまり世間的な論理に流されるのではなく、仏教が教える甚深の教えに従うべきだということだ。甚深の教えとは、仏教独特のロジックにもとづいたものであること、それが強調されるわけである。

また、長老のアーナンダに対しては、ヴィマルキールティーによって説かれた法門を護持するようにとの命が下される。その法門は、「対句の結びつきと逆倒の完成」とも、また「不可思議解脱章」とも呼ばれるが、それはこの経典の独特なロジックを表現した言葉であろう。

以上、維摩経を逐次的に読み進んできた。読んでの印象は、般若経に続く古い大乗経典として、般若経で説かれていた空の思想をより詳細に発展させながら、菩薩のめざすべき衆生救済の方便について述べたものだということである。そんなわけでこの経典は、般若経と並んで、大乗仏教の基本的な教義を盛った経典として、いまだに大乗仏教各派を通じて、よく読まれている。



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