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維摩経を読むその五:文殊菩薩とヴィマラキールティの対話


十大弟子や三人の菩薩たちらがいずれも尻込みしたあとに、世尊は文殊菩薩(マンジュシリー)に向ってヴィマラキールティを見舞うように命じる。文殊菩薩も初めは躊躇していたが、仏陀の力添えを得て、自分の能力のままに談論してみましょうと言って、見舞いに行くことにする。文殊菩薩は智慧第一の菩薩とあって、世尊のまわりにいた大勢の人々は、きっとすばらしい法音を聞くことができるだろうと期待して、文殊菩薩のあとに従っていった。

このことを知ったヴィマラキールティは、神通力によって自分の居室を空っぽにして待った。かれの邸の中には、かれが病臥している床があるばかりで、ほかには何もないのであった。

文殊菩薩はまず、病気の原因と状態、またそれがいつまで続くのかについて聞いた。それに対してヴィマラキールティは次のように答える。「無知があり、存在への愛着があるかぎり、私のこの病もそれだけ続きます。もしすべての衆生に病があるかぎり、それだけ私の病も続きます。もしすべての人が病をはなれたら、その時、私の病もしずまるでしょう。なんとなれば、マンジュシリーよ、菩薩が輪廻の中にいるのは、衆生にその原因があり、病気はまた輪廻がその原因になっているからです。もしあらゆる衆生に病気がなくなったら、そのときは菩薩にも病気はなくなるでしょう」。つまりヴィマラキールティは、自分は菩薩として、衆生の病気を一身に引き受けているというわけである。

文殊菩薩は、ヴィマラキールティの邸が空っぽなことを不思議に思い、そのわけを尋ねた。それに対してヴィマラキールティは、仏国土が空っぽなように、私の邸も空っぽなのだと答える。仏国土が空っぽというのは、それが空そのものだからである。そう言ってヴィマラキールティは、空の意義を強調するのである。

文殊菩薩はさらに、菩薩はどのようにして菩薩の病気を慰問すべきかについて尋ねる。それに対してヴィマラキールティは、自ら病むことによって、他の人びとの病気をあわれむように慰問すべきだと答える。相手の気持ちになれということだろう。そこでヴィマラキールティは、病気についての洞察を述べる。「病は、過去世以来、非実在で倒錯した業が起こされて生じるのであり、また虚空な分別によって生じる」のであると。

病の根本とは何か。ヴィマラキールティは言う、「対象をとらえることが根本です。対象としてとらえられたものがあるかぎり、そのものが病の根本であります。何をとらえているかというと、全世界(三界)を対象としてとらえているのです。対象をとらえるという(病の)根本を知るとは何か。それはとらえないこと、見ないことであります。見ない(不可得)とは対象をとらないことであり、何を見ないのか、といえば、それは内にある主観と外にある客観と、この二つの観を見ないのであって、それゆえに見ないと言われるのです」。つまり、「われありとの考え、わがものなりとの考え」を断つことなのである。その考えが煩悩を呼び、人を病気にさせるのである。

ところでヴィマラキールティが病を得ているのは、かれ自ら病を呼び込んだのではなく、衆生の病を一身に引き受けたからであった。衆生の病を一身に引き受けることこそが、菩薩の境涯なのである。それはさとりを得たのちも、輪廻のうちに身を置き続けるということを意味する。ヴィマラキールティは言う、「輪廻を境涯とし、しかも煩悩の境涯ではない、これが菩薩の境涯です。涅槃を悟ることを境涯とし、しかも決して完全な涅槃には入らない境涯、これが菩薩の境涯です」と。逆説的な言い方であるが、要するに菩薩は自分自身のさとりだけのために生きるべきではなく、衆生を救うために生きるのだといっているわけである。

以上が文殊菩薩とヴィマラキールティの病気に関する対話を述べた部分で、漢訳では「問疾品」と呼ばれる。これに、「不思議品」と呼ばれる部分が続くが、そこでは文殊菩薩のトレードマークといえる獅子座の話が出て来る。文殊菩薩の仏像はいずれも獅子に乗った姿であらわされているが、それは維摩経のこの部分に基づいているのである。

ヴィマラキールティは、山幢世界から獅子座を取り寄せて、文殊菩薩やそのほかの人びとに座らせるのであるが、それについては面白い話が先行している。シャーリプトラが、ヴィマラキールティの部屋に座るための椅子がないのをいぶかしく思っていたところ、ヴィマラキールティは、あなたは法を求めて来たのか、それとも椅子がほしかったのか、と冷やかすのである。その上で、山幢世界から獅子座を取り寄せて文殊菩薩らに座ってもらうのである。その獅子座はどれも巨大で、それが三万二千も送られてきたのだが、それにもかかわらず、ヴィマラキールティの邸に納まったのであった。ともあれ、獅子座は巨大なので、それに座るためには、獅子座の大きさに相応しい大きさに変身しなければならないのである。

そのような変身ができるのは、不可思議解脱の法門のおかげだとヴィマラキールティは言って、不可思議解脱について語る。不可思議解脱の中にいる菩薩は、かの巨大なスメール山(須弥山)を芥子粒の中に入れ、四大海の水を毛穴の中に注ぎ入れる。また、あらゆる存在は無常であり、苦であり、空であり、無我であるとの声を響き渡らせるとも言う。平家物語の冒頭の言葉は、維摩経のこの部分に触発されたのだと言えよう。



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