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維摩経を読むその四:菩薩たちとヴィマラキールティの対話


釈迦は十大弟子に続いて菩薩たちにヴィマラキールティを見舞うように命じるが、かれらも十大弟子同様尻込みする。やはり顔向けできないというのだ。

まずマイトレーヤ(弥勒菩薩)。マイトレーヤは、釈迦の滅後にその後継の仏陀になることが予定されている菩薩であるが、そのかれにヴィマラキールティは次のように説諭する。マイトレーヤは釈迦から悟りを得て涅槃に入ると予言されたが、マイトレーヤが完全な涅槃に入るとき、そのときには衆生も完全な涅槃に入ることであろう。なぜなら衆生が完全な涅槃に入らないかぎり、如来も完全な涅槃には入らないからだ。そこで、涅槃の前提となるさとり即ち菩提とはいかなるものか、について説かれる。

ヴィマラキールティは言う、「菩提は身体で悟るのでもなく、心で悟のでもありません。菩提とはあらゆる相が寂滅したことです。認識の対象としてまちがって設定されたあらゆるものではありません。菩提とは意志作用がすべて働かないこと、あらゆる見解と無関係なものです。菩提はあらゆる分別とはなれ、動きや思いや心の動揺のすべてとはなれています。菩提はあらゆる願いの起こらないこと、すべてのとらわれることとはなれ、無執着な状態にあることです。菩提は法界をすみかとして住することであり、真如に応じて知ることです」。これを単純化して言うと、日常的な世間知からはなれて、真如と一体化することが菩提ということになる。真如とは、意識作用にもとづく分節以前の全体的な世界のあり方ということになろう。

次に光厳菩薩。光厳菩薩はヴィマラキールティに菩提の座とは何かを問う。ヴィマラキールティは次のように答える。「すべての人々に対して平等な心であるから、それは慈を座とし、あらゆる迫害を忍ぶから、悲の座であり、法の楽園を喜び願うから、喜の座であり、愛着と憎しみとが絶たれているから、不偏の心を座とします。六神通があるから、それは神通を座とし、分別がないから、解脱の座であります。人々を成熟させるものであるから、それは方便を座とし、人々をすべて包摂するから、四摂事の座であります」。要するに菩提の座とは、仏法そのものであるということになる。

次いで持世菩薩(ジャガティンダラ)。持世菩薩は、あやうく魔の派遣した天女にたぶらかされそうなったところ、ヴィマラキールティによって救われたのであった。ヴマラキールティは天女たちを発心させ、欲望ではなく法の楽園を楽しみなさいとさとす。法の楽園とは、「仏陀に対する不壊の浄信を抱く楽しみ、法を聞こうと願う楽しみ、僧に対して奉仕する楽しみ、慢心なく師を尊敬する楽しみ、五欲の対象に身をおかない楽しみ、蘊を死刑執行人のようなものであると見る楽しみ、六界を毒蛇のようなものであると見る楽しみ、十二処は無人の村のように空虚であるという楽しみ、悟りを求める心を守る楽しみ」等々をもたらしてくれるものである

ヴィマラキールティはこう言ったうえで、天女たちに対して無尽灯の法門について述べる。無尽灯の法門とは何か。「一つのともしびから百千のともしびが点火されても、かのともしびが減るわけではありません。それと同じく、ひとりの菩薩が百千の多数の人々を菩提の中に導き入れても、かの菩薩の菩提心の記憶は減らないし、減らないだけではなく増加するものです。同様に、すべての善の法が他に対して説かれたとき、説かれるに応じて、それらの善は増大する。これが無尽灯と名づけられる法門です」。この法門をこころがければ、如来の恩をよく知り、あらゆる衆生を生かすことができるというわけである。

以上三人の菩薩に続いて須達多(スダッタ)。須達多はコーサラ国の富豪であり、貧しい人びとに布施をしたことから、給孤独と呼ばれた。また祇園精舎をつくって釈迦に寄進した。そのかれが、ヴィマラキールティから法の祭について聞かされたと言う。法の祭、あるいは法会とは、「いつがはじめで、いつが終わりということがなく、衆生を成熟させるもの」である。そのような法の祭を行ったものこそ、真の祭りを行ったのであり、神々によっても人々によっても供養されるべき者だというのである。

以上の部分は、漢訳では「菩薩品」と呼ばれる一章を構成するが、チベット語訳では、弟子品とともに第三章に収められている。



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