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維摩経を読むその三:ヴィマラキールティとは何者か


第二章以下で、このお経の主人公であるヴィマラキールティ(維摩詰)が登場して、大乗仏教の基本的な思想を、菩薩を含む色々な人との対話を通じて展開していく。かれはヴァイシャーリーの城内に住んでいるが、世尊の注目を引こうとして病気を装う。自分が病気であると知れば、世尊が見舞をよこすだろうと思ったからだ。果たして世尊は、かれの病気を知って、弟子たちや菩薩たちに、見舞に行くように命じる。だが誰も行きたくないという。そのわけは、かつてヴィマラキールティから厳しく批判・説諭されたことがあり、顔向けができないからだという。お経は十人以上の弟子や菩薩たちがヴィマラキールティから受けた批判や説諭の内容をまず紹介していくのである。

その前に、ヴィマラキールティがいかなる人であるか、についての言及がある。かれはリッチャヴィー族の俗人ということになっているが、菩薩を相手に説諭するところからして、単なる俗人ではなく、菩薩といってよいような人である。実際世尊もかれのことを菩薩と呼ぶようになる。菩薩とは普通の人間がさとりにむけて修業をしている姿をいい、その修業の度合いによって、さまざまな段階に別れるが、かれの場合にはかなり高度な段階に達しているのだと思われる。お経はそのかれを、「甚深法のありかたによく通じ、般若のパーラミターによって完成した者」と言っており、「仏陀と同じふるまいをなす」と言っている。「俗人の白衣を身につけながら沙門の行いをまっとうし、在家でありながら、欲界とも色界とも無色界ともまじりあわないでいる」ような人なのである。

ヴィマラキールティが病気を装った理由は、世尊の注目を引くということのほかに、人間の身体のむなしさを説くためでもあった。「この肉体は、われでもなくわがものでもなく、空である」というのがヴィマラキールティの考えである。肉体のみではない、心も含めて「われ」と思われるものは、実在しない、つまり空であるというのが、その主張の内実であるが、これは般若経によって確立された大乗仏教の基本的な思想なのである。如来の身体もまた同じである。如来は肉体を持つのではない。如来が持つのは法身である。法身とは、世界の根本原理のことを言い、抽象的な概念である。如来とはそうした抽象的な概念が存在の衣をまとったものとして考えられるわけである。

世尊からヴィマラキールティの病気を見舞うように命じられたものは十名以上に上る。以下それらの者らが、ヴィマラキールティに顔向けできない理由にあげた批判や説諭の内容について触れよう。なるべく簡略化するために、ヴィマラキールティの主張の眼目を紹介する。

まず舎利弗(シャーリプトラ)。釈迦の高弟で、般若心経で釈迦と対話する人物である。智慧第一と言われるかれは、ヴィマラキールティから座禅の仕方を批判される。本当の座禅とは、「身体も心も三界の中にあらわれないようにする」というのだが、その意味は自我にこだわってはいけないということだ。自我は空しいと知るべきなのである。

二番目は目連(マハー・マウドガリヤーヤニー・プトラ)。かれは神通第一と言われ、有徳の説法者であるが、その説法の仕方を批判される。釈迦の説法どおりに説法すべきだというのである。釈迦の説く法とは、「空性のなかに集約され、無相をもってあらわにされ、無願の性質のあるものです。分別することもなく、(否定し)除くこともありません。捨てることもなく、立てることもなく、生も滅もありません」。そのように言う意味は、我々の日常的な分別知にこだわってはならないということである。日常的な分別知は、対象的な世界を分節して弁別するものであるが、分節以前の混沌とした全体こそが真如だとするのである。

三番目は大迦葉(マハー・カーシャバ)。かれは釈迦の教団の最長老で、清貧の行者とも頭陀第一とも言われるが、そのかれをヴィマラキールティは、富豪の家を回避して貧者の家だけに食を乞うのは慈悲心が偏波していると批判している。何ものも平等に扱うべきなのである。

四番目は須菩提(スプーティ)。かれは解空第一と言われ、般若経において仏陀が語り掛ける相手として登場するが、食の平等性によって一切の存在の平等性を知り、一切の存在の平等性によって仏陀のありかたの平等性を悟れと説諭される。一切の存在の平等性とは、どのような衆生もみな平等に成仏する資格があるという意味である。

五番目は富楼那(プールナ・マイトラーヤニープトラ)。かれは説法第一の人と言われるが、説法にあたっては精神を集中して比丘の心を観察し、かれらの意欲するものが何であるかを知れと説諭される。真に菩提心を持ったものでなければ、説法しても無益になるというのである。

六番目は大迦旃延(マハー・カーティヤーヤナ)。かれは論議第一の人と言われるが、生を伴ない滅を伴なう法は説いてはならないと説諭される。「まったく生ぜず、また滅せず、かつて滅せず、将来も滅せずという、このことが無常の意味」であると知って、そのような無常をこそ論じるべきなのである。

七番目は阿那律(アニルッダ)。かれは釈迦のいとこで、失明したが天眼第一と言われた。そのかれが、本当の天眼の所有者とは、禅定の境地に入ったままで、あらゆる仏国土を見、しかも主客の対立を以て分別するのではないと説諭される。言い換えれば、そのような真如を見るためには、肉体の目は不用ということだろう。

八番目は優波離(ウパーリ)。かれは奴隷階級(シュードラ)の出身だが、持律第一の人と言われ、律典の編集に活躍した。そのかれが、あらゆる存在は夢や幻のようなものであり、真実ではなく、心の妄想によって生じたものだと説諭される。

九番目は羅睺羅(ラーフラ)。かれは釈迦の実子で、密行第一、すなわち律を守ることにおいて細密と言われた。そのかれが、出家とは形相をはなれたものであり、はじめとか終りとかの両極端を見ないことだと説諭される。概念的な設定を超越し、愛欲の泥をわたる橋であり、愛着することがなく、わがものとの思い、われありとの考えを離れたもの、それが出家なのだというのである。

十番目は阿難(アーナンダ)。かれは釈尊のいとことして、もっとも早い時期から釈尊の説法を聞いていたので、多聞第一といわれる。そのかれが、如来の身体は法身であって、食物で養われる身体ではないと説諭される。如来には世間を超えた身体があり、世間のあらゆる性質を超越している。如来の身体には痛苦はなく、煩悩の漏出とはまったく逆である。如来の身体は無為であって、すべての作為を離れている、というのである。

以上の十人は、世に十大仏弟子と呼ばれている人々である。かれらについて説かれた部分を漢訳では「弟子品」という。また、その前段である第二章の部分は「方便品」という。



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